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2005/01/30

無名の天才彫刻家イヴ・ダナのこと

        戦慄が走るオリジナリティ


                 天童 大人 てんどう・たいじん
                 詩人・朗唱家・字家=一九四三年、
                 小樽市生まれ。独協大外国学部
                 フランス語科中退。詩集「玄象の
                 世界」ビデオ字・聲集「即興朗唱 
                 大神・キッキマニトウも世界」ほか。

 海外の美術情報のほとんどは、ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、ミュンヘンといった大都市に集中している。裏を返せばそれ以外の地域が、いわば盲点になっているとも言えるだろう。
 今回、私の触れる若き無名の、しかし、天才と呼ぶべき彫刻家イヴ・ダナも、そんな盲点地域の一つスイスから出現した。
 無名と書いたが、かって巨匠マリノ・マリーニやバーバラ・ヘップワースらを取り上げ、現在も息長く刊行を続けているスイス・グリフォン社の叢書<二十世紀の彫刻家>の最新刊が、このダナを扱っている。一昨年の二十九歳の時のものだが、二十代で自分の作品集を出したのは、世界広しといえども彼くらいのものだろう。
 その作品集には、二十四歳から二十八歳までに制作された七十四点のうちから四十点余りの作品と、アトリエでの仕事ぶりや彼の詩的断章などが収録されている。
 昨年六月、東京・渋谷の古書店で、その頁を捲りながら、背筋に戦慄が走ったことが、昨日のように思い出されてくる。一点一点の完成度が極めて高く、誰にも真似できそうもないオリジナリティに満ち溢れた造形。
 天才!。まさしく現代では死語になってしまった言葉が、ふと私の脳裏に閃いたのである。もちろん、いくら鮮明でも写真には限界がある。それだけでは、彫刻の量感や質感はわからない。作品集『DANA』の発しているメッセージをひしひしと感じた私は、すぐにグリフォン社に問い合わせ、彼に直接手紙を書き送ったのである。待つこと二ヵ月。やがて彼から、三度目の個展カタグロと一緒に、自分の仕事を見てもらいたいという返事が届いた。
 私は九月下旬、十二年振りのヨーロッパに向けて出発し、ローザンヌの彼のアトリエに立った。
 「ぼくの作品は触って見てくれ」。アトリエを訪れた私に、ダナはそう言った。遠慮なく触れることにした。彼の作品は鉄とブロンズ。触れてみると、写真ではつかめなかった量感や質感が良く分かる。何より、鉄がこんなに温かく感じられたのは、私には初めてのことだった。作品集では見ることが出来なかった大きな鉄のレリーフもある。広いアトリエの二階に置かれた作品は、すべて売約済みとのことだった。
 ダナは湧き出るイメージを、デッサン、もドローイングもなしに作品化する。五ミリ厚の鉄板を切り、打ち叩きながら、いつのまにか、あの驚くべき形態を作り上げてしまう。デッサンを描き、マケット(模型)を作ったあとは職人まかせ、という発注芸術が多い中で、ブロンズ鋳造まで自分の手でやり通す彼の姿勢も、また貴重である。
 「ぼくの第一の妻は彫刻だ。僕は彫刻と結婚した」と言い切れるだけのことを、彼は現実にやっているのだ。
 ダナは生粋のスイス人ではない。二歳の時に、両親と兄と二つの鞄と共に、エジプトのアレキサンドリアからスイスに亡命してきたのである。彼の作品の特異なオリジナリティの奥底には、彼の出自からくるものが色濃く息づいているのかもしれない。
 ともあれ私は、ダナは凄いの一語に尽きる作家だと思う。だからこそ、わが国の若い作家たちや美術ファンに、彼の作品に直に触れてもらいたいという思いがつのった。幸いにも十数年来の友人で私のダナをめぐる一部始終を見ていた熊谷雅明氏が、その夢をかなえてくれた。彼はこの三月(1990年)、東京・大森に、ギャラリーKUMAGAIを開設。そこへダナ二十四歳の時の鉄の作品「鉄床の夢」と、二十五歳の時のブロンズの作品「序曲」の二点が届いたのである。
 作品集を発見してから、約九ヵ月が経っていた。
 その日、実物と初めて接する熊谷氏とともに、梱包を解かれたダナの作品と対面した。さして広くもない空間で、座ったり立ったり、触ったり動かしたりして七時間余り、我々は二つの作品を見続けた。それらは、刻々と新しい生命を刻むように、見るたびに表情を変え、視線を飽きさせることがなかった。
 この画廊には年内に、さらに何点かのダナの作品が届くことになっている。
 若手よりも大家、無名よりも有名に価値があると信じこんでいるこの国で、彼の作品がどんな反響を巻き起こしていくのか。
日本でのダナ発見者として、その行方がとても楽しみだ。

  毎日新聞 1990年5月14日(夕刊) 掲載より

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一条の戦慄が走ったー若き彫刻家との出会い

    一条の戦慄が走った -若き彫刻家との出会い


                         天童 大人

 この六月(1989年)のある日,渋谷の通い慣れた書店の棚で見つけた一冊の作品集(スイス・グリフォン書店刊)が、十二年振りにヨーロッパの大地に触れるきっかけになるとは、夢にも思わなかった。一瞬、『DADA』と見間違えた程、『DANA』は似ていた。だからすぐには手に取らなかった。厚さ二センチ余りの本を手に取り、ページをくって行く。仕事で汚れた手が写し出され、(女性と思えるほど華奢で)、横顔のポートレートも少年のように見える。しかし、掲載されている作品群は、一点の無駄もない、鋭さがあり、しかも「鉄」だというのに温かみがあるのだ。一条の戦慄が体内を走った。これは本当に稀有なことだ。
 しかし、このYVES DANA(イヴ・ダナ)という名前は、私は一度も耳にした事はなかった。この作品集は、過去五年余りの作品群だ成り立っているという。決して小品ばかりではない。例えば五年前に制作した「CHANT DE LA MAIN Ⅴ」=写真=は160×450×200センチあり、五ミリの鉄を叩いて作られたイヴ・ダナ二十五歳の時の作品だ。友人のM・K氏に電話をして、尋ねてみたが一度も聞いたことも無い名前だという。私にかって一度もなかった事だが、これらの鉄の触感を確かめたい思いもあって、作家宛に初めて手紙を書き送った。その間、毎日、飽きずに作品集を眺めていた。普通、作品集を作る場合、駄作も含まれているものだが、甘さのある作品が一点も無い。
 この若い作家の恐るべき本能は並みのものではなかった。現在、当たり前と化した発注作品で無かったとしたら、彼こそ、現代で死語と化している<天才>ではなかろうか。
 以前三年近く、ある新聞の美術展評を担当し、毎日のように銀座を中心に画廊巡りした体験を踏まえても、これだけの若い逸材の彫刻作家には出会わなかった。彫刻の本道を歩んでいながら、決してヨーロッパ的でもない。もしかしたら、彼の出自、エジプト(アレキサンドリア)生まれと深い関係があるのかも知れない。
 バカンスの季節も終わり、二ヵ月余り経た九月上旬、速達と共に、展覧会のカタログが届けられた。
 「自分は、デッサンも素描も一切しない」と記してあり、「自分の仕事も見てもらいたい、ゆっくり話をしたい、泊める用意も出来る」とのことだった。
 霊性的直感が動き始め、返事を受け取って三週間後、私は、ローザンヌの彼の家に居た。そしてアトリエの作品群を見てから、グループ展に出品しているダナの作品を見るために、彼の作品のコレクターで、友人でもあるスイス ポリテクニカル大学のショッカール教授夫妻と共に、外の会場にまで見にも出かけた。

 「テンドオが私を日本で発見した」と微笑みながら語る天才彫刻家イヴ・ダナ。
 「一冊の作品集を見ただけで、ローザンヌにまでやって来るなんて?」と驚く教授一家。
 しかし、現実に設置してある場所で、彼の作品を見てみると、より強く彼の<天才>を感じる事が出来た。
 特に写真の作品はローザンヌのある銀行のロビーにさりげなく置かれてあり、(このような銀行のロビーが日本のどこにあるのかしら?)デッサンも素描もなく、彼の華奢な手から産み出されているのだ。彼はブロンズの鋳造もミラノに行き、自分自身で行うという。
 詩人エズラ・パウンドが、二十三歳で戦死した天才彫刻家ゴオディエ=ジャレスカを発見し、回想録を書いた顰に倣って、いずれ私も、この天才彫刻家のことを書かなくてはなるまい。
 今、最も求められているのは真の<天才>なのだから。
 それにしても一冊の書物の持つ重さは、計り知れないことを自らの体験を通して、改めて実感した。

                      (詩人、 小樽市生まれ)
 
          北海道新聞(1988年12月12日、夕刊)掲載より

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2005/01/27

詩人ロベルト・サネージ  ーオリジナル作品限定本『TERZINA』

      詩人 ロベルト・サネージ 
   
      -オリジナル作品限定本『TERZINA』

 昨年(1996年)の四月下旬、九月中旬、そして今年の四月下旬と、私はイタリア・ミラノ在住の友人、画家の森下慶三ことKEIZOの家を訪れている。その度に、彼が連絡を取ってくれているのだが、何故か、いつも会えなかったのが詩人のロベルト・サネージだ。彼のことは、本誌の一九九二年の八月号に、「「余白」の詩人ーロベルト・サネージ展」という文章で、個展のことを紹介した。しかし、未だに会っていなかったのだ。今回、スイスのベルンでの彫刻家、イヴ・ダナのオープニングパーティに出席の後、ローザンヌからミラノに戻った翌日の五月八日、Galleria,l‘Origimaleで行われる彼の個展”Opera lirrca"のオープニングパーティーに出るべく、私もアルテ・ジャポーネの中田佳江子女史と画家の富岡万里子さんと共に会場に向かった。
『オペラ・リリカ』の作品に於いては、彼の詩の作品やオペラ歌曲のレパートリーを、紙にインクで書いていったオリジナルなものである。彼は詩人として、翻訳者として、版画家として、評論家として、多様な活躍と言葉の卓越を我々に見せてくれるのである。
 ロベルト・サネージは一九三〇年ミラノ生まれ。一九九三年にヨーロッパ詩人賞を受賞しており、その間に喜劇オペラの”Da capo”、”TAXI”などの作品も手掛けている。T・Sエリオット、シェイクスピア、ブレイク、シェリーまでと幅広い。またミルトンの『失楽園』も彼の翻訳作品である。彼の芸術や文学の研究は『La valle della visione』にて見ることが出来る。
 彼の選集は多くの国の言語に訳されている。Vincezo Guarracino監修の『L!incendio di Milano (ミラノの熱情)』等である。イタリア以外でもサネージは自分の作品”scritture visive"をイギリス、アメリカ、カナダ、日本で発表している。
 画廊で渡されるサネージの紹介文を読んで、初めて知ることも多かった。人で埋まった会場を抜けるとテラスがあり、ワインを飲みながら、知人の版画家坂美奈子とも久し振りに話をした。遅れてやってきたKEIZOに改めてサネージを紹介された。そして夫人にも。会場で、一際目立つのは、詩画集が多いことだ。ほとんどが初見の書物だ。活字印刷の強さ、バランスの良さ。良い書物を身近かで見続けてきた者のみが得られる材質とのバランス感覚。学び得ない世界だ。私の『キッキ マニトウ』はいい本だと突然、サネージが言ってくれた。あれは装丁家の吉野史門の力に負っている。活版印刷で造った書物だ。決して印刷物ではない。サネージの作品も、線が伸び伸びとして、自由自在に、よりバランス良く、余白を活していて、五年前と比べようがない位、巧みになっていた。これでこそ、『TERZINA』シリーズの命名者であり、刊行の巻頭を飾るに相応しい仕事だ。
『TERZINA』とはサネージが編集顧問をしているミラノのセヴェルニーニ出版社が、昨年から始めた新しい企画であり、豪華オリジナル限定本シリーズで"傍観者”、”三つ折り”の意味を持つ。使用する用紙は、シシリー島、東のシラクーサで、エジプトの伝統、パピルスの技術を用いて制作された手漉きの30×71cmサイズの紙だ。年二回、イタリアで著名な作家三人の作品のオリジナルを限定百二十部制作、刊行し、三十部を世界中の国公立図書館に寄贈し、保存してもらう。三十部は作家分、三十部は出版社分、残り三十部は、作家相互の交換分となり、作家自らの金銭的負担は一切ない。それより、参加した作家の作品を一点ずつ貰う事になるのだ。このような画期的な企画が、手すき和紙の伝統を持つ我が国に、今迄、一度もなかったのは何故か。詩人も、画家も、出版社も、またメセナに関係し、芸術に関心がある振りをしている企業関係者にも、よく考えてもらいたい。ミラノの若い出版社主の心意気のひとかけらも、見当たらないのは誠に残念なことだ。
『TERZINA』の第一巻は、Robert SANESI、第二巻はSergio DANGELO,第三巻はJulio Le PARC(彼は一九六六年のヴェネツィア・ヴェンナーレの大賞受賞者である)、第四巻はKeizo MORISHITA、第五巻はMario ROSSELLO,第六巻はAntonio TERUSZI、そして今年の上半期の三人は、第七巻はADAMI,第八巻はTaijin TENDO、第九巻はEnrico BAJと刊行される。既刊分の六巻は、既に、東京の国立国会図書館に収蔵されているので、関心のある方はご覧になることが出来る筈だ。
 昨年の九月、イタリア・ウンブリア地方のトーディーで友人たちと一軒屋を借り、十日余り過した後、友人たちと別れ、KEIZOに会うべくミラノに向かった。そこで彼から二枚の紙を渡され、何か書いてみないかと言われた。そしてすでに出来上がっている第四巻目の自分の本を見せてくれた。
 私は喜んで紙を預かって帰国した。そして十二月、エジプト・カイロに向かう前に、「字」作品、二点を書き上げ、速達でミラノに送った。しかし、速達で送ったにもかかわらず、作品は締切日を大幅に越えた年末に、やっと届いた。
 今年の四月中旬、刷り上ったとの連絡をKEIZOから受け、カイロでのイヴ・ダナの石膏の仕事が、どのようなブロンズの作品に変化するのかを見極めるのを兼ね、自分の始めてのセリグラフの作品に、落款と限定番号を入れるべく、ミラノに向かった。そこで初めて、この企画の実行者であるセヴェルニーニ出版社の若い社主、ロベルト・セヴェルニーニとマッシモとの二人に会い、早速、仕事を始めたが一日では終わらなかった。そこで初めて私は、著名な画家のアダミとエンリコ・バイとに挟まれて自分の「字」作品が、世界にデビューすることになった。こんな幸運な事など、滅多に有る事ではない。これはサネージやKEIZO、セヴェルニーニやマッシモ等のイタリアからの私への励ましだと思った。来る一九九九年十月、東京・六本木にあるストライプハウスび美術館で、同館に於ける十二年振りの一ヵ月間に亘る「字」の個展に、セヴェルニーニやマッシモたちが来るという。帰国後、サネージから『ミラノの熱情』が届いた。ローザンヌのイヴ・ダナからは、一九九八年か九九年に、ジェノバの財団の助成を受けられる可能性があることを伝えてきた。
点と点とでしかなかった形が二十一世紀に向かって、やっと線を引き始めた。この線は強く、烈しく、鋭く宇宙を刻みながら歩み始めるだろう。
           『現代詩手帖』(1997年7月号)に掲載より

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2005/01/23

国文学者・加藤守雄先生のこと

     古代の情熱に向かって
 
                       天童 大人 
 その日の朝も、いつものように新聞を取りに階下に下りて行き、居間に戻って、ガスストーブを灯け、新聞を読み始めた。そして、劇作家・サミエル・ベケットが亡くなったのか、八十三歳でと読みながら下段に視線を移すと、あっと叫んでしまった。

加藤守雄氏(かとう・もりお)=折口博士記念古代研究所客員研究員、元慶應義塾大文学部講師)二十六日午後五時三分、呼吸不全のため、埼玉県北本市の北里研究所メディカルセンター病院で死去、七十六歳。葬儀・告別式は二十八日午前十一時から東京都中野区上高田一ノ二ノ十二の竜興寺で。喪主はめい、土井町子(どい・まちこ)さん。自宅は埼玉県鴻巣市生出塚ニノ三三ノ四。
折口信夫のまな弟子の国文学者で、角川書店の雑誌「短歌」の編集長、文部省の芸術祭テレビ部門審査委員を務めた。著書に「わが師 折口信夫」、「折口信夫伝」がある。  -一九八九年十二月二十七日朝日新聞朝刊よりー

 昨日の五時三分に亡くなったって?だって昨日の二時すぎに、大塚フオーラムの事務室から、文化学院の事務担当の中村悦子さんと電話で、加藤先生の病状について話し、その後、何故かお茶の水に出て、文化学院に行き、直に中村さんと話をしたばかりなのだから、心から驚いたのだ。時計を見るとまだ六時五十分。九時から文化学院は始まる。待つ二時間余りは長く感じられた。そをっと階下に降り、書棚から署名入りの『わが師 折口信夫』、『折口信夫伝ー釈超空の形成ー』を取り出して開いてみた。特に『折口信夫伝』には識語が『うやうやし/天童大人にまみえたり/だみ声張りて/うた歌ひ給ふ/逸民 加藤守雄 三礼ー』と記されていたことに改めて気がついた。
 加藤先生には多くのことを教わった。「教わった」という感懐を持ちえた数少ない先達のひとりであった。特に文化学院文科二年の時の、読書感想文で、私が選んだシュリーマン著の『古代への情熱』についての文章が、朱筆で戻されてきた。その朱筆の内容がなんであったか、今ではすっかり忘れているのに、「トロイ」という地名だけは、何故かくっきりと潜在意識に刻まれたらしい。だから一九七三年五月中旬、フランスとスペイン国境のイルンから、オートストップでトルコをめざして出発した時、なにがなんでも、あのトロイから加藤先生に手紙を出そうと思ったのだ。だから、言葉も不自由でありながら、一ヵ月後にはどうやら辿り着くことが出来た。しかし、人が入った木馬が、通れるような道は何処にもなかった。だから、本当のトロイは他にあるのではないかと思った事を思い出した。ともあれ、あの時の旅の体験が、深い重要な意味を含んでいたことを、今ならはっきり直識できる
まだ九時にはならない。
 私が文化学院文科に入学したのは、創立者の西村伊作氏が亡くなった直後の一九六三年四月だった。その時の先生たちは仏文学・若林真・高畠正明、万葉集講読・加藤守雄、宗教・仁戸田六三郎、文芸思潮・桂芳久、中国文学・藤田祐賢、社会学・下田重明、西洋哲学・平本洋子、文章・戸川エマ、心理学・乾孝、北欧文学・山室静、ロシア文学・原卓也、江戸文学・興津要、日本文学・塩田良平、コーラス・秋山日出男等であった。なかでも戸川エマ、加藤守雄、桂芳久、の三先生とは、特に往来があった。二年生の時に同人を募って作った同人誌『文学學共和国』は、桂先生が大学生時代、田久保英夫・山川方夫氏等と共に活動した雑誌の名前を貰っての船出だった。広告も、紀伊国屋書店の田辺茂一社長を、エマ先生の紹介状を持って訪れ、お金を貰ってきたこともあった。その年の学院祭の「秋の集い」の時、伊作の娘の利根に、「あのシブチンの茂一からお金を貰ってきたって、凄いわね」といわれたことも想い出した。(田辺茂一って本当にケチだったのだろうか? 私は知らない。)
 「文學共和国」はまさに共和国だった。同人の一人は、フラメンコギターラとなった白土征彦、陶芸家になった村田萌子、イタリア・フィレンツェ在住の雨宮紀子、芥川賞候補にもなった村上博こと作家・辻原登、スペイン・サンタンデール在住の山内正子等、おもしろい人々が桂芳久の元に集まった。そして誰も好き勝手にやってきた。これが、どんなに大切な事なのかは、今ならよりはっきり分かる。我々を背後からサポートしていたのは加藤守雄せんせいだった。先生っていうのは何かおかしな気がするよ。加藤さん、加藤さんといっていた。だから『わが師 折口信夫』の書き出しが『「プロフェッサー加藤。プロフェッサー加藤。お電話ですよ」』に、私はおもわず笑い出した。
 絶妙な書き出しだったからだ。だから加藤先生が、「あんな文章が書ける作家はいないと杉村(友一)が言っていた」というのを聞いて、次はいつ書きますかと問うと「一千万円の(1960年当時)小説を書いたらステーキをご馳走するよ」と言われるのが、その後の先生の口癖だった。
 ともかく加藤先生は折口学だけではなく、色々な情報をもっていた。その教えの数々は作家・詩人たちのことをアイロニー豊かに告げてくれた。そして、それは先生の言ったとをりに多くの作家や詩人たちが動くのを、おかしく、おもしろく遠くから拝見させて貰ったと今なら、言ってもいいだろう。折口門下で、最も才能のあった男が、子供たちに向かって言う言葉には「毒」がありすぎた。振り返ってみれば二十五年余り、加藤守雄の毒舌を浴びてきた事になる。それも無頼と同じく、学者の卵でもない、なにに孵化するのか分かりもしない輩に向かって、色々と告げた言葉は数限りない。だから詩人・吉増剛造と始めた「北ノ朗唱」についてだって、その頃おもしろいことを言っていた。そうして八年、まさしく先生の言ったとをりの展開になってきている。
 時代が大きく変わる今日この頃、ぜひ加藤先生の言葉を聞きたいと思うことが多くなるというのに、大事な人が消えてしまったことを実感すると寒さが甦ってきた。
 九時になり、文化学院に電話をするが話中だ。多くの教え子たちが、余りの早さに驚いて問い合わせているに違いない。ダイヤルをただ必死に回しているうちに通じて中村悦子さんの聲が飛び込んできた。彼女はまだ朝日新聞の朝刊を見ていないようだ。ともかく、「文学共和国」の同人はじめ、知っている同級生などへ、連絡することにして、ともあれ、二十八日の告別式に出ることにして、電話を切った。

 「テンドオさんでは?」と見知らぬご婦人から、聲をかけられたのは、JR東中野駅に着いた電車から、降りようとした時だった。
 あまりにも不意なので「えヽえヽ」と答えて、相手の次の言葉を待った。
「戸川エマ先生の出版記念会の時にお会いした」とのことで、学院関係者と分かり、何故かほっとした。並んで告別式の会場に向かって歩き始めながら、このご婦人、野口須美子さんがここに居るのが不思議だったが、もっと不思議だったのは彼女の口から語られる私自身のことだった。
 「確か文藝雑誌の巻頭に詩を発表されたことがあったでしょう」
 「ええ、もう四、五年前ですかね。」
 「掲載された雑誌を、本屋で先生、買って、わざわざ家に見せにこられたんですよ。テンドオの詩が載るようになっつたと言って、凄く喜んでをられたんですよ。」
 私は自分の耳を疑った。加藤先生が喜んで、この野口さんの家にまで見せに行ったって? そんなこと俄に私は信じられなかった。
 しかし、次から次へと話す野口さんの言葉を聞きながら、ここ二年余り、会っていなかった。余りにも偉丈夫な先生だったから、そう簡単に肺ガンでなんか亡くならないだろうと、自分で勝手に決めこんでいたことに気がついたが、でもどうしても亡くなったとは思えなかった。
 告別式の受付で中村悦子さんからあがってと言われて、素直にあがった。控え室で待っているうちに、桂芳久(北里大学教授)がやってきた。北本市の北里メディカルセンター病院は、加藤先生から頼まれて紹介された事を知った。告別式が始まったが、私は野口さんの口から語られた加藤先生の言葉を幾度となく、想い出していた。出棺の前に、死顔に対面出来た。安らかな表情だった。
 外に出ると見知った顔があまりにも少ないのに驚いた。突然だったので連絡が間にあわなかったのだろう。火葬場に向かう霊柩車を見送って、桂芳久氏と共に駅に向かった。しかし、このまま真直ぐに帰る気になれず、駅近くの蕎麦屋に入り、色々と文化学院の話などしながら飲んだ。私が知っている学院の文科の先生だった加藤さんが亡くなって、ついに我々の「文化学院文科」は滅んだ。なんの取り柄もないただの専門学校になりさがってしまった。酒量は増した。
 気がつくと夕刻になり、店を出た。発券売場で先生の教え子三人と出会い、まだ帰りがたく、久し振りに学生気分になって、五人で新宿のビヤーホールで再び飲んだ。痛飲しなければ、いたたまれない気持が私にはあった。病人への見舞いは健康者の思い上がりとばかり避けてきていたが、こんなことなら思い切って伺えば良かったと思う。
真に才能のあるひとりの国文学者のひっそりとした死が、もたらす損失はあまりにも大きい。最後まで衰えることがなかったというあのアイロニー溢れる言葉をもう二度と聞くことが出来ない。
加藤守雄先生、本当に有難うございました。ゆっくりお休み下さい。

戒名 慈光院謙徳常照居士 七十六歳 合掌

        詩誌『ハリー』第23号(1990年3月1日発行)掲載より

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2005/01/20

イタリア・ヴェローナ、アレーナに 聲を刻む

      イタリア詩人・ロベルト・サネージに捧げる。

                 詩人・朗唱家・字家  天童 大人
「ヴェローナで、何かして貰いたい事がありますか」と、初対面のヴェローナ文学者協会秘書、グロリア・リヴォルタ女史に言われたのは昨年十一月(2001年)、ミラノ在住の友人の画家KEIZO(森下慶三)の家でのことだ。
今年三月二十一日に、ヴェローナの文学者協会が開催するシンポジウム「オマージュ・ロベルト・サネージ」で、「聲」を贈ることを頼まれたので、私は承諾した。そして、希望として私は「アレーナ(野外劇場)で、聲を出してみたい」と。
生前、一度しか会えなかったロベルト・サネージは昨年一月、肺がんの為、七十一歳で亡くなったが、絵も描く、ノーベル賞候補にもなったイタリアでは著名な詩人だ。私は彼に、恩義があった。
五年前、彼が命名発案し、第一巻を飾った限定・版画本『TERZINA』叢書。イタリアで有名な画家、エンリコ・バイ、ヴァレリオ・アダミ、KEIZO、ブルーノ・ムナリー等に並んで、私の字作品「黄道日」が収められ、イタリアからデビュー出来たのも、サネージとKEIZOとの友情の賜物だった。
帰国した翌日、KEIZOから連絡が入り、「グロリアが、アレーナで出来そうだと言っている」と伝えて来た。
私は半信半疑だった。今まで、日本のオペラ歌手を含め、単独公演は誰一人として行われていない筈だからだ。
二月四日、ヴェローナ市の美術館、記念物部門から、「使用許可証が下りたので、好きな時間だけ、アレーナを使っていい。至急、世界に向けて発信するメッセージを送って欲しい」と彼女から連絡があった。
そこで「ーこの美しい水の惑星へ、聲の贈り物ー」を書き、友人のウェストポイント・ファインアート・オフィスの協力で、翻訳をヴェローナに送った。「春分の日、正午(日本時間夜八時)から、ヴェローナのアレーナで、肉聲を刻み始めるので、このメッセージを受け取った人は、同時刻に聲を出してください。聲と聲とを繋いで、この美しい水の惑星に、聲の贈り物を」と、呼びかけた。
見知らぬ永六輔氏が、御自分のDJ番組で、この試みを紹介してくれたことを、後日、友人から教えられた。
三月十九日、アレーナ脇にあるヴェローナ文学者協会に行き、四ヶ月ぶりに、グロリアに会った後、早速、ひとりでアレーナに入った。初めて見た野外劇場を「小さい」と感じた。
一九九0年から毎年、五月か六月の新月の日、「聲ノ奉納」を続けてきた対馬・和多都美神社、海中の一の鳥居の「場」の空間と瞬時に比較したからだ。
アレーナは夏のオペラの舞台設営中だった。翌日、聲を出しながら、グロリアと二人で選んだ場は、かって皇帝が立った場所だった。
当日、青天の中、準備を始めると、少しずつ、人が集まり始めた。テレビカメラが三台、雑誌のインタビューは、ミラノから駆けつけてくれたKEIZOに委ね、正午、アレーナの中心めがけ、聲を刻み出した。聲が風に乗り、劇場に反響しているのが、はっきり分かった。そして思いっ切りの、四十五分間。
 日本人で初めて行われたアレーナでの単独公演は無事に終わった。そして午後四時半、ヴェローナ文学者協会で開催されたシンポジウム「オマージュ・ロベルト・サネージ」は、サネージ未亡人や子息、ローマからやってきた詩人たち。そして約百人余りの聴衆の前で、グロリア女史の司会に促され、私はロベルト・サネージの見えない力に感謝を込めて、聲を出した。
協会の窓硝子が、震える音を聞きながら。
  
                        (てんどお たいじん)


          公明新聞(2002年5月17日号)に掲載。

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2005/01/19

イタリア・ヴェローナ・アレーナでの単独公演公式メッセージ。

    ーこの美しい水ノ惑星へ、聲の贈り物ー 

                     主催:ヴェローナ文芸家協会


           UNIVERSAL VOICE

                    天童 大人

来る3月21日、春分の日、太陽と光りとが天頂にある刻、正午、ここ
イタリア・ヴェローナのアレーナ(野外劇場)から、この素晴しい、愛
しい水ノ惑星に向かって聲を発シます。肉聲を打ち、刻み始めます。
 もし、このメッセージが届いたら、この刻、この惑星のどこに居て
も、正午(イタリア時間)から、耳を澄ませ、そして貴方自身も聲を
出してみて下さい。
我々が知らされているところの歴史、約2000年前、このアレーナが
出来上がる頃、ギリシアに於いて、人の聲が届く範囲が、その人の
力の及ぶ場となっていたことを想い出して下さい。国の力でも、物
質の力でもありません。個人の持っている内に秘めた力です。
 聲は(こころ)のエネルギーです。聲は自分の(こころ)を具現化し
たものです。聲は整形出来ません。誰もが自分自身の聲を取り戻
し、聲を出してみて下さい。国籍、人種、宗教、性別を超えて、あら
ゆる束縛から自分を解き放って、ほんの少し、この我々の住んでい
る美しい水ノ惑星に、聲の贈り物をしてくれませんか。
ひとり、ひとりの聲が、この惑星の秘めた力です。
2002年3月21日12:00(イタリア時間)から、どうか、ひとりの人間
の持つ力を信じて、聲を出してみて下さい。(日本時間では3月21
日午後8時)

聲ノ力が世界を繋ぐことを願って。

また、この日、この催事の機会を与えてくれた、今は亡き友人でイ
タリアの詩人、ロベルト・サネージを偲ぶ会がヴェローナの文藝家
協会で行われます。
もしこの刻、イタリアにいらっしゃるようでしたら、是非、ヴェローナ
のアレーナ(野外劇場)においで下さい。お待ちしております。

    2002年2月16日 東京にて。


このメッセージはヴェローナ文藝家協会から、イタリア語、英語に
翻訳されて、世界に向けて発信された。

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エズラ・パウンドの墓

  エズラ・パウンドの墓

         天童 大人

 ある時期の私の枕頭の書に、一冊の写真集を選んだことがある。
「エ・ズ・ラ・パ・ン・ド」と口遊みながらRIZZORI社刊の「EZRA POUND IN ITALY-FROM THE PISAN CANTOS」を繙く。それがどれほど激しかったかは、一昨年の九月下旬、十二年振りにヨーロッパを訪れた時、初めてチューリッヒ空港の降り立ち、歩き出した瞬間、あの老詩人の姿が、私の脳裏を横切ったのだ。それはエズラ・パウンドが、発見し、二十三歳で戦死した天才彫刻家ゴオディエ=ジャレスカとの出会いのことが、私自身と重なりあったからだらう。
今、千葉県の新浦安にある国際教育学院で三月一日から行われているイヴ・ダナ展(祭日のみ休校・八月三十一日まで)、この三十一歳の若き彫刻家こそ、私が日本に居て、一冊の書物から発見した”天才”なのだ。この事件については、本誌の記憶力の良い読者なら、一九八九年十二月五日付のこの文化欄で、目に触れたことを記憶しているだろう。あれから十五ヶ月で展覧会を打てるまでに持っていった私と友人の熊谷雅明氏との熱意は何処から湧きでたのであろうか。
これこそイヴ・ダナの作品が含み持ち得る真の力なのだ。
そんな作家がこの世の中に居たことが稀有なことなのだ。かって本紙の美術批評欄で、一九八五年一月から、一九八七年九月までの三十三ヶ月間、毎日のように銀座界隈の画廊を見て廻った。他紙の美術記者とも至る所で出会った。廻りながら私は絶対、自分の眼で”天才”を発見しょうと、密かに念じていた。かって詩人エズラ・パウンドが、若い天才彫刻家を発見したことを念頭に置いて、歩いていた時期もある。そして一瞬の僥倖が私に訪れた。
一九八九年六月八日、渋谷のT堂書店の見慣れた棚、『DANA』と白地に記された一冊の作品集、このことは、詩誌「HAPPENING」にも、詩作品「我、天才を発見セリー彫刻家イヴ・ダナへー」として発表しているので、もうこれ以上は記さない。
 一回目のイヴ・ダナとの会見を終えた後、私は、初めて、マドリード、バルセロナ、フィゲラス、フィレンツェ、ヴェネチア、ミラノ、パリと巡った。このヴェネチアに三日間滞在した時、やっとエズラ・パウンドの墓がサン・ミケーレ島に在る事を知り、訪れ、フィゲラスで購った、オレンジの一個を墓前に供えた。そしてパウンドへの御礼を込めた墓参りの記念に、今、私の人指し指に納まっている青金石の指環と出会い、買った。この時のことは、詩誌「ハリー」22号(一九九0年一月一日発行)に、詩作品「エズラ・パウンドの指環」となり発表した。一昨年に引き続き、昨年は、七月にザルツブルグで、ソプラノ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカヤのマスター・クラスを受講した後、またパウンドの墓参りをした。一年の間に、墓への指示標は新しく作り替えられていたが、「EZRA POUND」とのみ刻まれた墓石の周りには、静寂さが相変わらず、漂っていた。こうして二年続けて、何故か、感謝を込めて、詣っていることを確認した。しかし、詩人が一九七二年十一月一日に亡くなったことを、私は、トルコの帰途、立ち寄った一九七三年五月には残念ながら知らなかった。その時には、エズラ・パウンドの影は、私の何処にもなかった。やはり金関寿夫氏の『ナヴァホの砂絵』を読み、「ゴオディエ=ジャレスカとパウンド」の一文が、私を”天才発見”に駆り立てたのだ。
誰も知らないうちに、「イヴ・ダナは天才彫刻家だ!」と叫ぶのは誠に気持ちのいいものだ。昨今では死語と化した「天才」を臆面もなく乱発する。それはそうだろう。誰もがなし得なかった"天才発見”。自身を持って言い切り行動し、持続させる。そうすると”時代”が向うからすり寄ってくるのだ。
私が肉聲で行っている”即興朗唱”がそうだ。
最初はなあんだあれはと言っていたが、十年間、何を言われても続けてきてみれば、他に並び立つ者が居ない「聲の持ち主」となっている。ましてお金を払っても「肉聲を」聞くことが出来ない時代が訪れているだけに今後の展開がとても楽しみだ。ところで、誰かの本で、このパウンドの墓は、アメリカの女流彫刻家の作だと読んだ記憶があるので、今、手元に在るパウンド関係の本を拡げているのだが、捜す時には見つからない。
私の耳には、太いパウンドの自作詩を朗読する聲が聞こえてきている。こういった先達が居てくれて、とても助かる。
日本では身近に相談出来る明治時代の人々が居てくれることは本当に在り難いことだ。
ガリーナの時も相談に乗っていただいたのは、英文学者の寿岳文章先生、画家で「字」の仲間である村井正誠さん。村井さんの「写真機を持って行って、写真を撮っておいで、写真展が出来るから」のひと言で、カメラを買い、ガリーナの許可を貰って、一生懸命、精神を集中したら、本当に、「毎日グラフ」に発表出来、フォトグラファーになってしまった。「ダナ」のカタログの中の海外の写真は全て私の写真。
表現は感性。学校では教えても、学ぶ事も出来ないものなのだが、どうもこの国では、最も大切なことを置き忘れてしまっている。
日本人の天才を発見出来ないのは誠に残念だが、それもエズラ・パウンドのような巨人の詩人が居ないからではないか。かって詩人の吉増剛造氏が、「テ・ン・ド・オさんが日本のエ・ズ・ラ・パ・ウ・ン・ドに」と言った言葉が不意に耳の底から蘇ってきた。
どうしようか、パウンドさん?


     公明新聞(1991年4月24日)掲載より

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2005/01/17

新しい肉聲を求めてー第六回モーリス国際詩祭に招待されてー

第六回モーリス国際詩祭に招待されて

               天童 大人
アフリカでは政治的事情により、突然、催事がキャンセルされる事が、よくある話だと言われても、アジアの島国に住む者にとって情報が全く無い。だから九月中旬、開催予定の第六回アフリカ・モーリス国際詩祭への参加も、主催者のひとり、カメルーンの詩人ポール・ダケイヨウに・昨年から招待されていたが、慎重に考えていた。
しかし、昨年(2001)十月、第二回ポルトガル・アヴェイロ国際詩祭の主催者で、私を招待してくれた詩人ロサ・アリス・ブランコ女史から、もーりすでの再会を楽しみにとの連絡があり、彼女と緊密に連絡をとりつつ、十五日早朝、肌寒いモーリスのプレザンス空港に着いた。
出迎えの地元の若い詩人の案内でタクシーに四十分余り乗り、指定されたホテルでひと眠りして、野外にあるロビーに行くと、ポールもロサ・アリスも居た。他の二人の未知の女性はレユニオンから初参加のアニー・ダレクールとクレール・カァルムだった。遅れてコンゴ、モロニから詩人たちが参加すると言う。昼食後、ポールを中心に出発前に
送られていた過密なプログラムの検討に入った。
一日目の夕方、宿泊代と朝食代を負担している主催者所有のミニバスで、全員、アリアンセ・フランセーズに向かった。記者会見後、参加詩人が全員、詩を一編朗読。街に出て簡単な夕食後、地元の放送局「ラジオ・ワン」に向かい、詩祭の宣伝も兼ね、各自が再び詩を朗読。日本語をは初めて聞いたと言う女性ディレクターの要望で,
もう一編読み、ホテルに戻ったのは十一時半。
二日目、地元の新聞「エクスプレス」紙に、昨年六月に行われた第四回マダガスカル国際詩祭でのポールと私の写真が、今回の詩祭の紹介と共に掲載されていた。九時、モリース大学の詩の授業に、ポール、ロサ・アリス、私の三人がひと組となって参加、自作詩を読み(私の仏蘭西語訳はポールが朗読)、質疑応答に答え、二クラス、二時間、学生たちと交流。昼食は野外レストランで食べながらの朗読会。そして四時から六時まで、マリンホテル内にある廃墟で野外朗読会。夕食後、ディスコで朗読会、ホテルへは深夜十二時。
三日目は朝九時からクィン・エリザベス学院の講堂。中・高校生三百人余りの学生の前で朗読。質疑応答、そして学生たちの朗読と二時間余り、刻はあっという間に過ぎて行く。昼食はシャルル・ボードレールセンター。詩人ボードレールが若い頃、この島に立ち寄ったことがあると言う。夕方、街の中の書店の売り場で朗読会が始まった。
アニーが私の詩を読みたいと言う。読み始めた彼女の聲を聴いて驚いた。そこには探し求め続けていた「聲ノ力」、「聲ノ質」とが確実に在ったからだ。詩の意味を理解し、私の読む聲ノ力まで熟知していて、響きもいい。自分の翻訳詩の読み手を、それも女性の聲を、モーリスで発見できるとは、夢にも考えていなかった。私も一編読み、彼女にも読んで貰って、間違いなく確信に変わった。聴いていたロサ・アリスも、来年のチェニスで開催される国際詩祭に、アニーを推薦したいと言う。
私はもちろん大賛成だ。アニーも、来年、レユニオンで国際詩祭を。
決まったら、ポール、ロサ・アリス、テンドウを招待すると。「聲ノ力」が国境を、人種を、宗教を超えて、人と人とを結び付け、道を拓いて行くことを私は知っている。だから招待された国際詩祭には、出来る限り参加し、日本語を聲高らかに朗唱し、この水ノ惑星に、私は聲を刻み続けているのだ。

「夢の庭」(2003年1月)に掲載。

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2005/01/15

セネガル・第三回ダカール国際詩祭。

 第三回 ダカール国際詩祭に参加して。

                           詩人・朗唱家・字家

                             天童 大人

 アフリカ・セネガルに行くことになるとは夢にも思わなかった。八
月のある朝、突然、コンゴ出身の詩人カマ・カマンダ氏から電話が
あった。彼とは三年前、第七回メデジン国際詩祭で初めて出会い
、二年前には、東京日仏会館で行われえた彼の講演会「アフリカ
語圏の語り物から詩まで」で、突然の指名で、彼の詩二編を朗読
した。
その後、彼が来日する度に会い、今回も友人の美術館長と共に
金沢から昨夜戻り、明日、ルクセンブルクに帰る束の間に電話を
くれたのだ。
「十一月十三日から十八日まで第二回ダカール国際詩祭がある。
主催者のサジ氏に直接手紙を書いてごらん。私からも連絡しておく
から」と、新宿のホテルの喫茶室で、昨年パリとダカールとのアフリ
カ協会から共同出版された分厚い全詩集にサインをしながら連絡
先を教えてくれた。
 私は九月下旬、キューバに向けて出発した。マタンサス大学主催
「即興詩人インディオ・ナボリ国際集会2000」の招待に、国際交流
基金の助成を受け、同大学のギャラリーで、私の字と写真との個
展を行うためだ。
 約二週間後、ハバナにも立ち寄らず、帰国するとセネガルから招
待状が届いていた。
十一月初旬、東京で行われた世界詩人祭に招待されて来日したカ
マンダに、翻訳家で友人のK氏を紹介するため、一緒に街で食事
をした。その後、私はミラノに向かい、東京の詩祭で詩祭で出会っ
たパオロ・ディガシィと再会した。
二日後、パリ経由でダカールに向かった。税関はその国の国情を
すべて物語る。ダカール空港の税関は最悪だったが、幸いサジ氏
の助手ニドウニ氏が出迎えてくれたので、最小の被害ですんだ。
空港からホテルに向かう途中、闇の中、路上に蹲っている多くの人
々や、魚の腐臭が漂う木造の小屋が立ち並ぶ界隈を通り抜け波
打ち際にある、ホテル「黄金の帆船」に着いた。すでにケベックの
女流画家のディオンヌが居た。私は詩祭のプログラムを初めて見
て驚いた。ディオンヌとナショナル・ギャラリーで二人展を行う事が
記されてあった。私は、サジ氏への御礼のため、自作の額入れリ
トグラフ一点しか持参していなかったからだ。

その夜から蚊との戦いが始まった。
フェステバルの初日は、夕方、詩人センゴール財団。内庭でのセレ
モニーから始まった。入り口で渡された紙には、詩がフランス語で
一編印刷されており、参加した詩人三十人余り全員が紹介も兼ね
て順々に呼び出され、壇上で読むという初めての試みだった。続々
と何処から出てきたかと思うほど、原色と黄金で着飾った美しい女
性の中に、カマを含め三年前のメデジン国際詩祭で出会ったフラン
ス、ポルトガル、アフリカの五人の詩人と思いがけず再会し、お互
いに喜んだ。
二日目の朝、ディオンヌと二人で市内のナショナル・ギャラリーに向
かった。大きな壁面の会場ではあったが、作品はすべて針金で吊
るさなければならない。彼女に頼まれ、作品の展示を手伝った。
私も版画作品を一点での展示を決めた。
三日目の午後、テレビカメラも入り、盛大に展覧会のオープニング
セレモニーが行われた。夜は船で三十分余り、かって監獄の在っ
たゴリ島でのフランスの役者たちによる詩劇の鑑賞会だった。
四日目、交通事情の悪いダカールで、詩人たちが数グループに分
かれ、高校にバスに乗って詩を語りに行く。
私も自作詩「聲神医」を読むと、タタラ・トモド・オトド・のリフレインに
全員が笑う。学生たちはコミックだと言う。日本・キューバとも違う
反応に驚いた。
夜は国立劇場で関係者と招待者だけの詩劇の観劇だった。
五日目、朝から全員バスに乗って向かったのは大きな学校だっ
た。幼稚園から高校まで四十八ヵ国三千八百人の生徒が隊列を
つくり、旗を振りながら「詩人」たちを迎えてくれるのだ。小学校、
中学校、高校と道を歩き回ると、それぞれ歓迎の催事が用意さ
れていた。秩序をほとんど感じないダカールで、整然と統一した
歓迎に違和感を感じたのは私だけではなかった。
夜、大統領宮に招かれ、七ヶ月前、大統領になったアブキライ・ワ
ッド大統領に、参加詩人全員が謁見した。こうした扱いは、恐らく日
本とは違い、「詩人」の評価が高いためなのだろう。この異形の眼
光鋭い人物が、今後どのような舵取りをするのか深い関心が湧く。
帰国後、サジ氏からEメールが届いた。
「ダカールで私たちにとって貴方の参加は大変心を打たれました。
我々は貴方がここに来た事を長い間思い出すでしょう。
貴方の美しい国民の文化が表すように、貴方たちは、我々にとって
親切と礼儀との手本でありました。連絡を取り合いましょう」。
ついにアフリカとの回路がひらかれた。

公明新聞(2000年12月22日)掲載より
(てんどう たいじん)

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2005/01/13

肉声

 十三年前、パリに住んでいたころ、ご主人でチェリストのロストロ
ポーヴィチ氏のピアノで歌うソプラノ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカ
ヤの肉声を初めて耳にした。その瞬間、私は一度でいいからこの
人のレッスンを受けてみたいと思った。
朗唱家として、人にレッスンを受けたいと思った唯一の人が彼女だ
った。
以来、彼女の声の質と声の力のことをいつも頭のすみに置きなが
ら過ごしてきた。
三年前、東京・銀座の画廊で「天童大人即興朗唱の世界」という
会を開いた。
その時、二次会まで来て私の声を「宇宙の声(ユニバーサル・ボイ
ス)」と名付けてくれたのはワシントンにあるケネディ・センターのジ
ュリアン・プール女史だった。
 その彼女が来日する事を知り、ことしの一月三十一日、雪の中、
招かれて歓迎パーティーに出かけ、旧交を温めた。
その時、思いがけずロストロポーヴィチ氏の姿をみかけた。もしや
と思いヴィシネフスカヤ夫人は一緒ではないかと傍らの人にたず
ねてみると、居るという。
 奇遇だった。意を決して私は「あなたのレッスンを受けたい」と話
すと、七月にザルツブルグ・フェステバルで開くマスター・クラスに
参加すればいいという。
私は詩人で、声でお金はとってはいるが歌手ではない、といっても
「七月にザルツブルグへ来い」であった。
私の「即興朗唱」についてのアドバイザーで、書家ならぬ「字家」
仲間の画家、村井正誠さんや私の「字」を最初に認めて下さった
英文学者の寿岳文章先生に相談すると、二人とも、滅多にない機
会だからいった方が良いといわれた。
ことしの七月十六日からヴィシネフスカヤのマスタークラスに参加
した。二十一人の生徒がいたが、日本人は私一人だった。
オーディションが始まり、私はいつものように「即興朗唱」を行った。
終わると教室のみんなからの温かい拍手に包まれた。
ついに念願を果たしたことを実感、感無量だった。

                   てんどう・たいじん=朗唱家・詩人

        日本経済新聞 「交遊抄」より(1990年9月1日号掲載

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2005/01/12

イタリア・ヴェローナのアレーナに聲を刻む

イタリア・ヴェローナ・春の詩祭

 突然、二月四日、一通のFAXがイタリア・ヴェローナ文学者協会
から送られてきた。
それはヴェローナ市・記念物・美術館部門のアレーナ(野外劇場)
使用の正式許可証だった。ついにグロリアはやったのだった。
昨年十一月、ミラノ在住の友人で画家のKEIZO(森下慶三)の家
で、初対面のヴェローナ文学者協会の秘書グロリア・リヴォルタ女
史から、三月二十一日「春の詩祭ーオマージュ、ロベルト・サネー
ジ」を開催し、シンポウジウムを行うので、開会の辞の変わりに、
「聲」を贈って貰いたいと言われた。
昨年一月、肺がんの為七十一歳で亡くなったノーベル文学賞候補
詩人ロベルト・サネージに、私は恩義があった。
私が本誌に彼を紹介したのは二度、「『余白』の詩人ロベルト・サネ
ージ展」(九二年八月号)と「詩人ロベルト・サネージーオリジナル
作品限定本『TERZINA』」(九七年七月号)。
特に『TERZINA』叢書は彼が命名し、第一巻を飾り、イタリアの著
名な画家たち、アダミ、バイ、KEIZO,ムナリー等に並んで、私の
字作品「黄道日」が、四年前、異国でデビュー出来たのも、ブレラ
国立美術学校の教授でもあったサネージと、かってブレラで彫刻
家マリーノ・マリーニの教室で学んだKEIZOとの友情。
訪れたKEIZOのアトリエにあった二枚の紙。グロリアの口から生
前、サネージは、ヴェローナと日本とで「カリグラフィ展」を開催した
い希望を持っていたことを知り、驚いた。
四年前から、春になると、サネージから招待届いていた「ヴェロー
ナ・春の詩祭」。予算がないが、いつか呼ぶからとKEIZOに伝言
を託していたサネージ。思い出すと切りが無い。
 正式な許可証を手にして、初めて、ひとりでアレーナに聲を刻め
ることが実感出来た。
 追ってグロリアから、自分の好きな時間だけ、アレーナを使用し
て良い事。至急、世界に向けて、メッセージを送れと言って来た。
すぐ「ーこの美しい水の惑星へ、聲の贈り物ー」を書き、友人のウ
ェストポイントアートオフィスの協力で、ヴェローナに送った。
二千年の歴史に耐えたアレーナと、産まれ出る春と、そして詩人
ロベルト・サネージとの三つのオマージュを込めて、聲をアレーナ
に奉納する。
地と刻と人とが一瞬、交わった刻、二00三年三月二十一日、正午
(イタリア時間)イタリア・ヴェローナのアレーナ、かって皇帝が立っ
た場所に、背後に聴衆を従えて立ち、夏のオペラの舞台設営中の
中心めがけ、スウィング・ボウルを鳴らし始め、聲を打ち出した。
アレーナに響く、自分の聲の残響音を聞きながら、聲を刻み続けて
三十六年、今日から新しい肉聲の時代が始まることを予感した。
思いっ切り聲を出した四十五分間、グロリア・リヴォルタ女史の献
身的な熱意と行動力と、そして詩人ロベルト・サネージの見えない
力とが一体となって実現したアレーナの公式記録に残る単独公演。
一枚の入場パスが全てを物語っている。

         Societa Letteraria di Verona
Arena di Verona 21-03-2002
Taijin Tendo


『現代詩手帖』(2002年6月号)掲載より。

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私のわび・さび TERZINA-イタリア・書物のわび

                                        字家 天童 大人

僥倖は不意に訪れるものなのか?

一昨年の九月、イタリア。ミラノで、何か好きな字を書いてみないか
と、気軽に二枚の紙を手渡してくれたのは画家KEIZO(森下慶三)。
ミラノ在住35年、私の第一詩集『玄象の世界』(1981年刊)を装っ
てくれた親友だ。黙って見せてくれたのは、彼のオリジナル版画作
品が三つ折にされた瀟洒な一冊の書物。
日本ではもはや見ることももできないシンプルさだ。
若いミラノの出版人、ロベルト・セルヴェニーニが身銭を切って刊行
を続けている”TERZINA”叢書。限定120部、うち30部は世界の
国公立図書館に寄贈、30部は作家分、30部は出版社分、残りの
30部は作家同士の交換分で、作家には一切の金銭的負担をかけ
ない。この心意気は、残念ながら今の日本の文化の分野には全く
見当たらないのだ。
第四巻のKEIZOの本を見ながら『書物の世界』の著者壽岳文章
先生のことを想い出した。

1983年春、アメリカ・シアトルの桜祭りでの朗唱公演を終えて帰
国した私は、京都の向日居を訪れた。対座しながら不意に壽岳
先生が、「テンドウさん、貴方の字は何と言われますか」。
咄嗟に「売れています」と答えてしまい、ショマッタと思った。すると
「そうでしょう、貴方の字はいい字です」。
一瞬、我が耳を疑った。”いい字”だとは、未だかって誰からも言わ
れたことがなかったからだ。
慈雲が大好きな先生の謦咳に接しただけで満足なのに、「字」を褒
められ、そのうえ、ひと聲と「聲」まで所望されたのだ。
私は白昼堂々と向日居で、ひと聲吠えた。
先生は空海の『聲字實相義』のなかに「聲ニ實相アリ」という言葉
があることを教示され、三輪山の頂きから聲を出したらとも勧めら
れた。
門の外まで、足の不自由な先生に見送られ、本当に嬉しくて嬉しく
て仕方がなかった。
帰京後、私は「字」と「聲」とに本格的に取り組み始めた。
壽岳先生のひとことと、KEIZOの好意とが重なり合って、TERZIN
A叢書のための「字」作品は、「黄道日」と造語した。
それを、古代パピルスの技法で、シシリー島の東岸シラクーサで漉
かれた紙に書き、ミラノに送った。

昨年五月、刷り上った自作に番号と落款を捺すためミラノに向かった。
ロベルト。・セヴェルニーニに初めて会い、イタリアの高名な画家た
ちに混じって、私の「字」作品が第八巻として刊行されることを告げ
られ、夢のような話に吃驚した。さらに、彼が叢書のすべての装
丁と造本とを、独りで手掛けていることを知った。
ミラノのお金はなくても書物に向かう若い出版人の真摯な姿勢、
そこから産み出された「作品」の、私は、日本では失われたわび・
さびが息づいているのを感じた。
こうしたイタリア文化の奥深さを垣間見るにつき、均一化された
民度の低い人間を大量生産し続けて省みることのない島国の姿に
は、慄然とせざるをえない。

                   月刊『なごみ』(1998年5月号)より

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2005/01/08

イタリア・ピストイア国際詩祭

2004年6月3,4,5と3日間、イタリア・ピストイアで国際詩祭が開
催された。参加詩人は、スペイン、アメリカ、イタリア、スロヴァニ
ア、シリア、ブラジル、チャド、オランダ、エジプト、日本、イラクから
18人の詩人が招待された。
この詩祭の特色は、野外の舞台に立つ詩人の背後のスクリーン
に、朗読と同時に、翻訳されたイタリア語が映し出される事だ。
その為、時間が出来、思う存分、聲を出せる事だ。
初日の3日、開演予定時間の21時。15分前から、突然、小雨が
降り始めた。すぐ止むかと思ったが、椅子には水溜りが出来始め
た。
開演時間も15分を過ぎ、開演が危ぶまれた時、主催者の女性が
私の傍に遣って来て、「テンドウ、雨を止めれるよね。止めて頂戴。
お願いだから。」 私は彼女に何も話しては居なかった。雨を止め
る事が出来る事など。この日の舞台の最後は私だつた。仕方が
無い。出来るかどうか判らないが、雨の中、会場に集まって来てく
れた人々の為にも、遣って見ようと思った。会場の中央に立ち、両
手を拡げ、聲を出した、祈りを込めて。二度!

思いが届いたのか、雨は止んだ。
詩祭は30分遅れで無事に始まった。主催者の女性が、やっぱり出
来たじゃないと言った笑顔を見せた。

イタリアの6月は初夏で、少しは暖かいと思っていたが、寒いのに
は驚いた。マダガスカル、モーリスに次いでピストイアでも、上着を
買うことに為ったしまった。

詩祭とは別に、参加詩人の朗読を改めてビデオに記録収録。また
日中に高校生たちに、詩人たちの、詩について、の考え方を話させ
た事だ。これらの事は、今後詩祭を開催する場合いに参考に為る
企画で有った。

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第12回ロザリオ国際詩祭(アルゼンチン)

2004年11月10日から13日迄、アルゼンチン・ロザリオで第12
回ロザリオ国際詩祭が開催された。
地元アルゼンチンを始めフィンランド、イラク、日本、ウルグアイ、ブ
ラジル、イタリア、オーストリア、デンマーク、スイス、ドイツ、スペ
イン、コロンビア、メキシコ、ヴェトナム、ペル^、コスタ・リカ、フラン
ス、ベネズエラ、等から、51名余りの詩人が集った。
午後6:30分から、始まる朗読会は、一人20分余りの持ち時間
で、連日10時過ぎまで続けられた。

このフェステバルの翻訳に全て関わっているトビアス・ブルックハ
ルト夫妻を中心に、ブエノスアイレスのホテル・ヴィクトリアに11
月6日から続々集結した。スウェーデンからアンヘラ・ガルシア、
ラッセ・ソーデルベルグ、イラクからアリーアル・シァラク、ヴェトナ
ムからヌグエン・シェ トロング、ドイツからミカエラ・スペィアー、
そして日本から私が。

8日にはボルヘスの館(FUNDACION INTERNACIONAL JORGE
LUIS BORGES)で、4大陸・詩人の朗読会が開催され,フィンランドか
らアイラ・ステンベルグ、スイスからヨアナ・リエール、アジアからシ
ェトロングと天童 大人、ドイツからミカエラ・スペィアー、イラクからア
リーアル・シァラク等が参加した。

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第4回アル・ムタナピ国際詩祭(スイス)

2004年6月10日から13日迄、スイス・チューリッヒで、第4回アル
・ムナタビ国際詩祭が開催された。

詩祭の参加詩人はヨルダン、クエート、バーレン、カタール、アルジェ
リア、リビア、イエーメン、エジプト、イラク、スペイン、スイス、日本、
イタリア、ボリビア、等から18人が招待された。
母国語での朗読の後、翻訳されたドイツ語、そしてアラブ語と各翻
訳者によって朗読された。

会期中、同時に作品展も開催された。私がイタリア・ミラノで制作し
たオリジナル限定版画作品集『Letter Scape』7点を展覧された。
会期終了後、イラク・バクダットに在るMesopotamien Institute 
Kulturprojekteに作品集の収蔵が決定した。また、イラク全土に
平和が戻り次第、イラク国内で、Tendo Taijinの展覧会が巡回さ
れる予定。

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