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2005/03/25

奉納朗唱 in 赤坂山王日枝神社

       奉納 in 赤坂山王日枝神社

                       天童 大人
                     (詩人・朗唱家・字家)

 なぜか東京で朗唱を行う事が余りににも少ない事に、自分の聲行歴を見て気がつく。3年前の(1988年)の10月、東京・六本木に在るストライプハウス美術館に於いて、初めて字の個展「三童人・字聲展」を行った。
其の会期中に、天童大人即興朗唱公演「聲と字によるー大神・キッキ・マニトウの世界」を行ってから東京では1度も無い。
 1983年から続いている厳寒期の北海道を巡る「北ノ朗唱」も、昨年は吉原幸子氏にお願いして、吉増剛造も高橋睦郎も私も参加していない。だから昨年は6月上演に、奈良・三輪山山頂での朗唱は3年前、英文学者・壽岳文章先生との約定を果たすためであり、下演の対馬・和多都美神社での7年振りの奉納朗唱は、古代の聲の道を確かめる試みであった。そして12月5日の福岡、c・m・hでの第三回「南ノ朗唱」と、ほとんど聲を出していなかった事に我ながら驚く。
 友人のK氏から、東京のド真ん中で聲を出したら、と勧められ、どうせやるなら、赤坂の日枝神社でと勝手に考えた。知人のM氏にお願いし、日枝神社のM禰宜を紹介していただいた。資料を持参してM禰宜にお会いしたのは、三月上旬、「聲」を奉納したい旨、お話をした。
 しかし、前例のない事だけに神社側は慎重だった。日を私が四月十五日と定めたのは、新月だからだ。物事の始まりである新月の日に、「聲」を奉納出来れば申し分ない。能舞台で聲を発する事も魅力はあるが、あの和多都美神社の自然の場の力を発見した者から見れば、残念ながら雲泥の差があるのだ。それは野外で肉聲を発した事がある者にしか分からない特別なことだ。人は自由自在に聲を出す事が出来ない。残念な事だ。
 一度、奉納をしたら、毎年行なわなくてはいけないとM禰宜に言われた。今年も対馬に行ける。もし四月に赤坂で出来れば、毎年、四月は東京・赤坂、六月は対馬、益々聲を出すことが楽しく為って来るではないか。
 さて段々と四月十五日が迫ってきている。四月十九日には、昨年の夏、巴里で決まった朗唱会が、福岡の桶井川で行なわれる。二月に福岡で注文した「天童朗唱」の提灯二個も届いている。準備は整ってきているが、やることが出来るのかどうか、未だ決まらない。K氏も延期したらどうか、と言うが、恐らく決まるのは、二、三日前だろうと思っていた。何故なら第一回目から大袈裟にしたくない気持ちもある。しかし、滅多に聲を出さないのだから、出来るだけ、私の聲を聞きたいと思っている人に聞いてもらいたい。四月十二日、思い切ってM禰宜に電話すると、十五日に行う事で準備を進めても良いと言われる。慌てて、友人たちに電話をする。友人のひとり、NHKのプロジューサーに電話すると、もう二週間早く分かっていれば、カメラを回したのにと言う。彼は四年前の「北ノ朗唱」を函館まで取材に来て、「土曜インタビュー」に取り上げてくれた人だ。またこの一月二十七日の甲府での朗唱会にも顔を出してくれた。ともあれ友人、知人四十人余りに電話をしたり、FAXを送ったりした。
 とにかく四月十五日、午後七時一分開場の時、集まってくれた人は、二十五人いた。在り難い事だ。日中しか見ていない場所で、どう行うのかも皆目分からずに聲を出すことは、危険このうえない行為だ。まして、事前の打ち合わせには無かった禰宜のY氏が参加者に御祓いをして下さると言うではないか。玉串を本殿に奉げる儀式。慣れない事で身体が緊張して、硬くなってしまった。
 閉じられた門の外では、ゴルバチョフ大統領来日の前日でもあり、警備の為の警察官の姿も数多く見られた。
 一度聞いてみたいと言われたI氏や、学生時代の同人誌「文学共和国」の仲間のM女史、造形作家のA夫妻、占星術家のY氏、詩人のS女史そして友人のK氏ら二十五人は(希望者のみ私と共に御祓いを受けた後)、禰宜に引率されて、境内に入った。一歩踏み込んだ瞬間、異次元に入り込んだ気がした。
 誰もが考え無かったに違いない。ここ東京・赤坂・山王日枝神社にて、「聲」を奉納する。
 私は必死に聲を探りながら、発シ始める。石畳の中央、本殿に通じる道を開いて、出し続け、終わってみれば二十七分の予定が三十五分余り聲を出した事になる。終わって禰宜のY氏が、本殿の内に座って、ずっと聞いていてくれた事を知った。全ての聲が本殿に飛び込んで来たと言う。
 初めてだ、こんな凄い聲を聞いたことが無い、と興奮した面持ちで語ってくれた事は、本当に嬉しかった。
 コトバを用いず、聲だけの試みは、初めての事。良いか、悪いかではなく、こうした体験が積み重なって、聲を発スルことの深い世界が見えてくるのだ。
 東京の中心の聖域での「聲」の奉納は、一九九一年四月十五日、新月の日に第一歩を確実に跡にした。
 当日の朝、思いたって英文学者の壽岳文章先生の家に電話を入れた。
 「あなたの、好きなことを思い切りやればよろしい」と言って下さった。
 五月十五日に初来日する若き天才彫刻家イヴ・ダナを対馬の和多都美神社に案内する。あの彼の作品「NATURE」を採集した場、古代の聲の道筋を見て、”天才”は何を感じてくれるのか、とても楽しみだ。
 出会いの始まりは、聲を掛け合う事から。もっと「聲」を大切にして貰いたいものだ。


 月刊「中州通信」(福岡:1991年7月号)(写真:藤原美絵二葉と共)に掲載。 連載「内なる宇宙を求めて No16」より。

 追記 この時、海の香りがし、遠くで、船の汽笛が鳴るのが聞えた。その後 歌手天童よしみが、この赤坂山王日枝神社で、歌の奉納を行っている。

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2005/03/18

彫刻家 砂澤 ビッキ

      彫刻家 砂澤 ビッキ  
  
                     天童 大人


 1月20日(1989年)、東京・羽田上空は暴風雨だった。旭川から飛び立ったJAS機も羽田上空まで来たが、着陸出来ず、札幌に引き返していた。札幌,10時20分発、JAL504便は、羽田上空で旋回を繰り返していた。機内には点滴液の予備を持たない砂澤ビッキが、女医に付き添われながら横たわっていた。今、札幌に引き返すことは時間的に余裕はなかった。まして他の飛行場に着陸することなどビッキには、絶対に許せないことだった。ただこの日、この時の為にの為にのみ、自らの全エネルギーを集中し、表現者として己の展覧会の飾り付けに向かう為に、生きてきた。病はすでに極限に近づいている。
 羽田上空を旋回すること40分余り、JAL504便は、無事に着陸した。彫刻家砂澤ビッキの生きる執念が着陸させたというべきではないだろうか。
 恐らく、羽田空港で待っていた人々は、北海道からの全便が引き返すなかで、JAL504便だけが、何故、着陸出来たのか、未だ分からないままでいるのではないだろうか。

 「もし、もし」あまり聞いたことが無い、誰だかはっきり分からない聲が受話器の奥のほうから響いてきた。
 「テ・ン・ド・オ・さんですか?」 「え・え・どなたですか?」
 「ノ・ボ・リ・ですが」ああ、写真家の野堀成美さんだった。
 「ビッキのことはご存知でしょう?」、ビッキの病状が重いことは昨年11月頃から聞き知っていた。
 北海道の友人からも、連絡が入ってきていた。「明日、ビッキは会場に午後1時から4時迄しかいないので、縁のある人たちにおいでいただきたい」とのお誘いの電話だった。「明日」、それは1月21日から2月5日まで、上野憲男・砂澤ビッキ・吹田文明の三作家による「現代作家シリーズ 89」が、神奈川県立県民ホールで行われるので、札幌の病院で面会謝絶の筈のビッキが出て来るというのだ。

 展覧会のオープンニングパーティは普通、5時か6時頃から始まる。そう思い込んで会場に来る人は、永遠にビッキに会えない。
早速、親しい「字」の仲間でもある美術評論家の酒井忠康さん、櫟画廊の小林真砂子さん、「櫨端」の井上孝雄さん、吉増剛造留守番電話に、そして87年の関内ギャラリーのビッキの個展会場で出会った絵本作家の五十嵐豊子さん等にお知らせだけはした。

 「ビッキ」とはアイヌ語で蛙を意味するコトバだ。
 
 彫刻家砂澤ビッキ、本人と初めて出会ったのは、80年7月、第二回「詩の隊商-北へ-」に参加して、札幌・帯広・士別・音威子府・稚内への朗唱巡業公演でだった。(この体験が、今年はこの2月16日から26日まで、帯広・釧路・北見・紋別・栗山・函館・札幌・石狩と巡る「北ノ朗唱」の7年間の礎になっている。)
 音威子府ではビッキのアトリエが、朗唱会場だった。それまでに京都の「ほんやら洞の詩人たち」の片桐ユズル・グループは消え、有馬敲氏だけが残ったが、彼もまた汽車の都合で、二次会に出ること無く消えた。
 ビッキと話をしたのは朗唱会の終わった後だった。ビッキが「なんだか、お前が京都の連中を批判し始めたら、有馬があわてて、お前の足元にあったテープレコーダーをとりに行ったが、あれはどういうことだ!」との問いかけだった。事情を手短に説明した。ビッキは大きな体を揺すり、聲をたてて笑った。そして、アトリエの壁に掛けてある見事な形をした鮭の乾物に気がついた私に向かって、「もし、上手に半身を切り取ることが出来たら、やるよ。色々な奴が狙っていたが誰も出来なかった。」
 まさか私が本当に切り取るとはビッキは思っていなかったに違いない。壁から取り外し、最も鋭利な刃物を手に持って、一気に捌いた。そして半身が欠けているとは、誰にも気づかれぬように再び壁に掛けた。ビッキは苦笑いしていた。半身は瞬く間に、集まっていた詩人たちの胃袋に納まった。こんな事があったせいかどうかは分からないが、一緒にグループ展をやる機会が出てきた。
 81年の「北の詩人たち展」(東京)を始めとし、この1月(1989年)13日から28日まで、新橋のギャラリーいそがや、で行われた画廊企画・第一回「天に翔ける男たち」展まで、6回も行なったことになる。
 昨年11月、札幌の病院に入院しているビッキに電話した。奥さんの涼子さんが出て、「天童さん、どうしてもビッキにやらせたいの。」「もちろん、急に抜けると皆がおかしいと思いますよ。元気なんだから、また「字」を書いてくださいよ。」

 1月12日、ギャラリーいそがや、には、すでに飾り付け・準備のため、いけばな作家中川幸夫さんがいて、作品の配置をテキパキと決めていた。ビッキの作品は届いていなかった。不安にかられ、札幌へ、電話した。涼子さんが出て、ビッキに替わった。
 「天童、ゴメン、未だ出来ていない。中川さんは?」、「今、飾り付けをしていて、間もなく村井(正誠)さんが作品を持って来るよ。」、「手がねえ」、「そんなこと言わないで「字」を書いてよ、中川さんも、皆、ビッキの作品を待っているんだから。」、「ああ、わかった。明日、間違いなく送るから。」、「頼むよ。」、「ああ、分かった。」
 14日に作品は無事に届き、中川幸夫さんが飾り付けをやってくれたという。というのも、私は、15・16両日、金沢での朗唱公演の為、14日のごごには、東京を離れたからだ。
 1月21日、桜木町からタクシーで県民ホールに着いたのは3時だった。丁度ビッキを寝たまま寝台車から、運び出す時で、手を貸すことになった。腕には点滴の管を付けたままだ。ホール内に運び、車椅子に乗せる時、そをっと足に触ってみた。足は太っているのではなく、パンパンに張っていた。瞳にまで黄疸症状がすでに出ていた。
 会場には人が集まり始めていた。酒井忠康さんの姿も見えた。五十嵐豊子夫妻もいた。作家の加藤幸子さんも、矢川澄子さんとご一緒に姿を現していた。札幌からずうっと付き添っている女医さんも心配そうにビッキを見守っている。すでにビッキが癌であることを知っている者にとっては、今の姿を見ることは誠に忍び難い。
 自分の作品展を見届ける為に命懸けでやってきた作家魂は、昨今、稀なことだ。
 この事は、創作家たちに、もう一度、自らを問い正す、良い機会になるだろう。
 ともあれ、長い時間、会場にビッキは居れる状態ではなかった。県民ギャラリーの学芸員・藤島さんから、人に集まって貰うから、手閉めして欲しいと言われ、折角だから、五本閉めで行うことにした。集まった数十人の人々がビッキの木彫作品群のなか、寝台車に横たわるビッキを囲むようにして、聲ヲ発シタ。
 ビッキの挨拶も、儀礼的なものではなく、聲の力が弱かったとはいえ、「作家の責任を果たしたい」という願いが脈々と波打っていた。
 これ以上はという、ドクタース・トップが掛かり、会場から去って行った。酒井忠康さん、五十嵐豊子御夫妻と私の四人は、二階のカフェで、ビッキの話に花を咲かせた。
 4日後の1月25日、札幌・愛育病院で大腸癌のため、息を止めた。五十七歳だった。


     詩誌「ハリー」第17号(1989年3月1日発行)に掲載、 に改稿する。                                     

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2005/03/17

詩人吉田一穂著『極の誘ひ』について

     詩人吉田一穂著『極の誘ひ』ついて


                    天童 匡史


 すでに完成されてしまった個人の年譜に、新たに書き加えることがあるとすれば、それは何を意味するであろうか。
 単行本として『極の誘ひ』は今迄の一穂のどの年譜にも記されてはいない。恐らく詩人吉田一穂のことをよく知る人々にとっても、『極の誘ひ』の存在を知らないのではないかと思われるので、ここに初めて書き記すことにする。

 詩論集『黒潮回帰』は1941年11月8日一路書苑より、函付(定価1圓20銭)で刊行された。
 内容は/序/極の誘ひ/黒潮回帰/鶴の説/穀物と葡萄の祝祭/野性の幻影/ハムレットの髑髏/砂/龍を描/半眼微笑/俳句の辦証法的構造/月の民/天幕の書/の12編より成っている。
 またこの試論集『黒潮回帰』は1948年11月15日、同じ一路書苑よりカバー装(定価200圓)にて刊行されている。
  『極の誘ひ』は先の12編より、同じ紙型で/極の誘ひ/穀物と葡萄の祝祭/野性の幻影/ハムレットの髑髏/龍を描く/俳句の辮証法的構造/の6編から成り、1948年6月8日一路書店より定価35円で発行された。この縦14,5×横10,8cm、52頁の小型本は、古書市場でも滅多に見ることの出来無い、幻の珍本と言えるだろう。
 これらの書物の発行者は、今年(1977年)1月、著書を持つ者にとっての理想である自刻、自装、自製本による瀟洒な私家版詩集『アスーリヤ(無日抄)』を刊行された詩人小山一郎氏である。
 6年前、吉田一穂主宰、詩誌「反世界」を購いたく、小山一郎氏に直接に連絡を取らなければ、吉田一穂、鷲巣繁男両氏との出逢いも無かったに違いない。 かてて加えて、一穂とピレネー山脈での約束を取り交わすことはありえなかった筈だ。

 1972年3月30日、小山一郎氏の案内で、初めて真の「詩人」に会った。吉田一穂氏に会った。その時、私は二冊の本を持参して行った。
 一冊は小山氏より頂戴した試論集『黒潮回帰』であり、他の一冊は、以前、池袋の高野書店にて見付けて、購った吉田一穂先生と署名された加藤郁乎著『眺望論』(現代思潮社刊)である。この詩論集のなかの「雲形をめぐってー或る日の吉田一穂ー」に、十ヵ所余り鉛筆での書き入れがあり、それが一穂自身の手による書き込みかどうかを、直接、詩人に確かめてみようと考えたからだ。一穂は「こんなこと書いたかな」と言いながら、「うん、これは俺の字に間違いない」と言った。(この書き込みのことは、加藤郁乎氏は知らないので、1972年6月に、新装第一版として、再販されたが、訂正はされていない。)
 一穂と私が、旨く話が噛み合うかと心配されていたに違いない小山氏を横に、話は積丹半島から始まった。
 一穂と話し始めると、彼が日本海を眺めながら生活した北の男であることを私は直識した。本質が理解出来れば猥雑な知識など必要ではなかった。
 幼少時代を小樽市で過した私にとって、一穂と語ることに余計な心配は全くいらなかった。私は、同質の人間に出逢えた喜びと、様々な試論を心置きなく話せることに酔っていた。
 スペインに向けて出発する前に、もう一度訪れることを私が告げると、ピレネーの登るのかと詩人は問うた。
 -ええ、一度は必ず、と未だ見ぬ異国の山々の雄姿を想い描きながら答えた。
 -頼みがある。ピレネーの山の頂きで、鉄砲を撃つと、銃声はキーンと言う金属音がするそうだが、本当かどうかを確かめてもらいたい。
 私は詩人に、何処でその銃声を聞き覚えたのか問わぬまま、日本に戻ってきた折に話すことを約束して、小山氏と共に辞した。
 もう十年早く出逢っていれば、もっと鋭く面白かったのにと、小山氏に言われても、いかんともしがたいことだった。

 暫らく経てから、新宿の或る飲み屋の開店祝いに、女友達から呼び出されたので、私も行って見た。私たちの反対側の席には、埴谷雄高夫妻、松山俊太郎、大島渚らが居た。時間も経ち、私の横に置かれていた背広を、千鳥足の大島渚氏が取りに来て消え、埴谷夫妻の姿もいつの間にか見えなくなり、松山俊太郎氏が私たちの席に入り、話の弾みで、私とジョルジュ・バタイユの話になり、吉田一穂の話になった。彼は一穂の弟子にろくなのはいない。窪田般彌や加藤郁乎の一穂論じゃ、一穂が可哀想だ、誰かが本格的な一穂論を書かない限り、一穂は正当に評価されないと言った。近く私は一穂に会うと言うと、吉田一穂は、何故萩原朔太郎が嫌いなのか、それをちゃんと聞いておいてもらいたいと言った。
 いずれ、何処かで出逢った時に、お教えすることを私は約束し、連れだって階段を降り、街角で、犬に吠えられながら左右に別れた。

 後日、小山氏から連絡があり、約束の日時に、一穂宅を訪れた。
 小山氏の姿はそこにはなかった。私は松山俊太郎氏との約束を果たす為に、起き上がった詩人に問うた。一穂が語り終えたとき、小山氏が渋沢孝輔氏を伴って入ってきた。(渋沢には著書『極の誘ひ』がある。)
 
 渋谷駅で、渋沢氏は、これから韓国の友人と埴谷雄高のところへ行くといって、人混みのなかに消えて行く後姿を、私は小山氏と見送りながら、新宿の飲み屋の二階で見た、視線の鋭い埴谷の顔と、吉田一穂との顔とを重ね合わせて見た。

 その夏、私は密かに日本を出発した。

 1973年、2月17日付で小山氏から、スペインに住んで居た私のところに葉書が届いた。
 「前略/一穂先生は一月中旬鬼子母神病院に入院されましたが、病状はかなり悪く、口もきけず、意識もずっと混濁の状態です。お正月頃はまだ元気で”匡史君から便りをもらった”と喜んでいました。「桃花村」は暮れに出版されました。(後略)」

 三月四日、友人のN・K。K・I両氏より、速達によって詩人の死亡記事が届けられた。
 この時までに、私は一穂との約束を果たしていなかった事が悔やまれてならなかった。

 五月中旬、巴里よりスペインに帰ってみると、小山氏より現代詩手帖四月号、吉田一穂特集号が送られて来てをり、死者は絶対に裏切らないという実感をもって読んだ。
 子息八岑氏によって作成された年譜にも、小山氏宅にて見た著書『極の誘ひ』の事は何処にも記されてなかった。

 トルコからの帰路、ピレネー山脈の頂きに立ち、一穂との約束であった念願の音を、自分の耳で捉えることが出来た。しかし、告げるべき人は、もうこの世に居ない。下山の途中、私は太陽からひとつの啓示を受けた。

 1974年春、日本に戻り、再び訪れたヨーロッパから戻った昨年の9月、一穂の本が、復刊されたり、新たに刊行されている事を知った。
 久方振りに小山氏宅を訪れ、かって私が小山氏に差し上げた『羅甸薔薇』のカバーが手垢で汚れているのにすぐ気がついた。それは吉田一穂が舐めるように見たためだという。
 近く吉田一穂全集(全三巻)が刊行されると聞く。

 詩人の死後に、はじめて気がついたように書物が刊行される事は、全く<知>の世界を、己の世界に持ちえぬ日本では当然の事かも知れない。

 古書「ほんのもくろく」其の二 に掲載  高野書店(1977年4月)発行より。

追記
 この目録を発行した高野書店店主 高野之夫氏は、現 豊島区長。

その後吉田一穂全集は、二度に渡り、小沢書店から刊行され、1993年4月に刊行された定本吉田一穂全集、第二巻、及び別巻の年譜には、『極の誘ひ』(現存部数は数部ナリ)は記載されている。
 2003年に、加藤郁乎氏には、一穂の書き込みのコピーを渡すことが出来た。
 1974年4月 帰国した私に小山一郎氏は、一穂さんの形見分け、として一穂手彫りの、アンモナイトを両面に彫った木彫印を下さった。この『極の誘い』の表紙には、印のアンモナイトが朱色で捺印されて在る。この木彫印は、何処にも展示される事無く、静かに今も大事に私が所持し、時折、取り出して見て、詩人 吉田一穂との会見を想い出している。
1987年一月一日より、 匡史(まさひと)改め大人(たいじん)に。


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2005/03/15

聲乃師ーガリーナ・ヴィシネフスカヤの偉大さ

聲乃師ーガリーナ・ヴィシネフスカヤの偉大さ

                     
                 朗唱家 天童 大人

 この記念写真を眺めていると昨年(1990年)7月、ソプラノ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカヤのマスタークラスを受講する為に、ザルツブルグで過した3週間の学生生活が、昨日の出来事のように鮮やかに蘇ってくる。まして初めての写真展の為に、大きく焼き伸ばした彼女の授業風景の姿を見ていると、私が何をしてきたのかが良くわかる。出発に「写真機を買って行ったらいい」と助言して下さったのは画家の村井正誠さん。今年86歳。23歳の時(昭和3年) 絵の勉強にパリ行った先達のひとり。「写真を沢山撮って帰ってきたら展覧会が出来ますよ。」とのこと。
 そんなものですかねと言いながらも、私の内部で何かが弾け飛んだらしい。早速、カメラを1台と35mm~105mmのズームを1本買って旅立った。マスタークラスのオーディションの事は他にも書いたので省略するが、午前3時間午後3時間の授業を3週間、1日も休まずに受講した。
 2週目の朝、気心も分かったので、ガリーナ教授に「貴女のことをエッセイに書きたい」、「貴女を写真に撮りたい」、「もし良い写真が撮れたら展覧会を開きたい」との問いに対して、全て答えは「よろしい」。
 早速、午前に1本撮り、午後の授業の時に、クラスメートに見せると、誰もが1枚の写真を見て、ガリーナに見せない方がいいよと言う。それは彼女の足を背後から撮った写真で、綺麗な足が写っている。教室の中で皆でワイワイ言いあっていると、ガリーナが入ってきて、その写真を見ると、片目を閉じて「お前は盗み撮りをしたね」とシヤッターを押す真似をした。てっきり私が怒られると思った友人たちはホッとした表情で各自の席に戻った。しかし、その後ガリーナは、決して足を見せず、黒や緑色のパンタロンスーツで過すのだった。21人の生徒の中で、日本人は私ひとりだった。それ以後、ガリーナは自由に、存分に撮らせてくれた。それが私にはとても有難かった。
 モーツアルティームのマスタークラスに学んで音楽家になるのは数多いだろうが、写真家になったのは世界中で私だけだろう。そして村井さんが予言した通り、初めての写真展「聲乃師ーガリーナ・ヴィシネフスカヤの素顔ー」が去る10月11日から16日まで東京のギャラリーフレスカで行われた。先達の助言のなんと正しかったことか。
 いまさらながら驚くばかりだ。


「ゆきのまち通信」(1991年10月号:青森)に写真3葉と共に掲載。 

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2005/03/14

詩人エズラ・パウンドに感謝を込めて

   詩人エズラ・パウンドに感謝を込めて


                     天童 大人

 やはり私は迷ってしまった。
 捜しても見つからない。どうしてだろうかと思うのだが、何故か一度でスンナリと辿り着けないのだ。訪れる度に季節が異って居る為、常に新しい風景に見えるのかも知れない。
 また入り口の外にある標示板の所まで戻り、改めて場所を確かめてから、再び入り口を入り左側から、ゆっくり、ひとつ一つ墓石を見ながら歩みを進めた。かって訪れた時の記憶は何ひとつ当てには出来ない。
 やっとのことで緑草に包まれ、EZRA POVNDとのみ羅典語で刻まれている墓石を見つけた。(これはアメリカの女流彫刻家Joan Fitzgerald のデザインとか、)
 四年振りの墓参りである。
 幸い辺りには、早朝のためか、人の気配がこの場には全く感じられない。
 東京から、ミラノ、ローザンヌ、パリ、フィレンツェ、ヴェネチァと持ち歩いて来た一冊の書物を墓石の上に置いた。
 昨年(1995年)11月1日、エズラ・パウンドの23回忌を記念して、14年振りに出版した第二詩集『エズラ・パウンドの碧い指環』(北十字舎刊・白鳳社発売)である。
 この詩集の裏表紙には、装幀の吉野史門氏に頼んで、かって私自身が撮影した、このパウンドの墓石の写真を用いているのだ。
 今、こうして写真の墓石と本物とを同時に眺めながら、この詩集の旅立ちに齎したパウンドの力を感じた。
 それは昨年の秋に出会った詩人藤富保男氏に教えていただいた、パウンドの娘で、北イタリアのメラノに住んでいるメアリ・ド・ラシェヴィルツ夫人に、この詩集を贈った。それが全くの偶然か必然なのか、10月30日、彼女の手元に着いたと言う。その日はエズラ・パウンドの誕生日だった。
 東洋の未知の詩人から届いた、裏表紙に、父親の墓石の写真が用いられている美しい詩集に深い感銘を受け夫人が、藤富氏に「1917年のメラノで開催されるパウンド学会で、天童さんに『パウンドの指環』を読んでくれるように、伝えてくださいよ」と書き送ってきた。
 こんな幸運な出来事など、いくら計算しても答えは簡単に出てこないだろう。そして同時期にミラノの友人の画家KEIZO(森下慶三)と詩人のロベルト・サネージ宛の本はまだ着いていなかったのだから。
 遠くから幽かな人の聲が聞こえてきた。しかし、だれも姿を現さないのを幸いに、墓石に置いた詩集を手に取り、頁を開いた。
 「エズラ・パウンドの指環」が目に飛び込んできた。
 パウンドの聞き慣れた力強い聲が、私の内側から響いてきて、促されるようにして、私は聲を出していた。
 誰にも邪魔される事無くもなく読み続けた。そしてパウンドの墓前にて、自作のエッセイ「パウンドの墓」を読んでみたいとは考えたが、こんなに早く実現出来るとは思ってもみなかった。聲はでた。
 "場ノ力”が加わって思うように響く。

 4日前、フィレンツェの宿から日本の藤富保男氏に電話して、パウンドの妻、オルガが3月15日、101歳で亡くなったことを初めて知った。この墓地の何処かに、パウンド夫人の遺体が安置されている筈だった。

 体がじっくり汗ばんできた。
 3日前、ルッカ市の古代劇場跡で、久方振りに会った友人たちに勧められて、聲を出したからかも知れない。

 「パウンドの行き先はイタリーアルプスのメラノの近くの城、ブルネンブルグ城であったし、そこにはかれの娘のメアリーが夫のボリス・ド・ラシェヴェルツ公や二人の子供といっしょに住んでいた。ラシェヴェルツ公は有名なエジプト学者なので、おもにエジプトの美術品がたくさん飾られていたし、また一室にはゴーディエ・ブルゼスカの彫刻がたくさんあったし、またあちこちの壁にはピカソやブランクジの絵がかけられ、日本の悲壮な能面もあり、書棚にはパウンド宛の署名されたジョイスやイエーツやオールディントンやエィチ・ディやエリオットやマリアン・ムアなどの初期の書物や、パウンド自身の初版本が並んでいた。」『上田保著作集』 「エズラ・パウンドと第二次大戦」より(原文のまま)

 ブランクーシやピカソの絵も見てみたい。しかし、もっとも見たいのは私とパウンドを結びつけた若き天才彫刻家ゴーディエ・ジャレスカの彫刻作品だ。
 その切っ掛けを作ってくれたのは、先頃、亡くなった英文学者金関寿夫氏の著作『ナヴァホの砂絵』だった。私を”天才”発見に駆り立てた重要な書物だ。

 そして、ついに、一冊の書物から、一人の”天才”を発見した。若き天才彫刻家Yves DANAである。
 もしエズラ・パウンドが、"天才”を発見したことを知らなかったら、私も無謀な野望を抱かなかったであろう。
 偉大な詩人が先達に居てくれたことを、深く感謝する。

    詩誌「VOZA」4号 1996年9月1日刊(帯広市)に掲載。

  天童大人詩集『エズラ・パウンドの碧い指環』
  (北十字舎刊:白鳳社発売)限定970部
   毛筆サイン・雅号印入り。定価3605円

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2005/03/12

不出世のオペラ歌手 ガリーナ・ヴィシネフスカヤの素顔

        不出世のオペラ歌手

     ガリーナ・ヴィシネフスカヤの素顔


        13年間、夢見たレッスン

 私は13年前(1977年)、パリに住んでいた時、ご主人のピアノで歌うガリーナ・ヴィシネフスカヤ夫人の肉声を初めて耳にした。瞬時に、私は1度だけでいいからこの人のレッスンを受けて見たいと思った。一緒に聴きに行った国立パリ音楽院の学生たちに興奮して,話したことを昨日のように、はっきり覚えている。以来、彼女の「声の質」と「声の力」とのことを常に考え続けてきた。
 その夫人に今年1月(1990年)、東京で偶然、会うことができた。 ロストロポービッチ氏が率いるナショナル交響楽団の来日公演の歓迎パーティーの席上だった。
 私は3年前、東京の画廊で「天童大人即興朗唱の世界」を開いたが、そのとき、二次会の席まで来て、私の声を「ユニバーサル・ボイス(宇宙の声)」と名付けてくれたケネディ・センターのジュリアン・プール女史と旧交を温めるのがパーティー出席の目的だった。ご主人と共に談笑するガリーナ夫人を目の前にして、私は迷ったが、意を決して話しかけた。
 13年前からの経緯を簡単に説明して、あなたのレッスンを1度受けたいと話すと、7月にザルツブルグでアカデミーがあると言う。
 私は詩人で、お金は取ってはいるが、歌手ではないと言うと、今、時間がないので、ザルツブルク・フェステバルのマスター・クラスに来ればよい、と再び言う。後で、私は自分の名前さえも名乗っていないことに気がついた。
 その1月、夫妻はソ連市民権を回復したばかりがったが、日本公演のあとの2月11日、16年ぶりに故国ソ連の地を踏んだ。
 私は、夫人の誘ってくれたマスター・クラスへの参加にちゅうちょしていた。
 レッスンを受けたいという思いと同時に、私が行っている「即興朗唱」を一度彼女に聴いてもらいたい、との思いが重なってなかなか決断がつきにくかった。私の「字」展の仲間でもある画家の村井正誠さんや、私の「字」を初めに認めて下さった英文学者寿学文章さんに事の経緯を話し相談した。二人とも滅多にない機会だから行った方がよいと言われた。
 7月16日、準備を整えてオーストリアに渡った。モーツァルテウム音楽院のガリーナ・ヴィシネフスカヤのマスター・クラスには21人の生徒と3人の通訳がいたが、日本人は私ひとりだった。
 オーディションが始まった。生徒たちの声や歌を聴きながら、日本でならこんな機会も最初からないだろうと思った。誰もが緊張しているから拍手も鳴らない。私は特殊だから最後だとばかり、自分勝手に思い込んでいた。突然、私の名前が呼ばれた。最初、私の説明がうまく伝わらない。ヴィシネフスカヤ夫人は「やってごらん」と言う。ピアノの前に跪き、歌舞伎で使う拍子木をいつものように一つ鳴らし。チベットのチョンマイを3つ鳴らし、クラシックのオーディションでは前代未聞であろう「即興朗唱」を演じた。終わると教室にいた全員からの温かい拍手。
 私は遂に自分の内に秘めていた念願を果たしたことをしみじみと実感した。
 生徒全員が退出した教室に、先生と私とピアニストが残り、声を出させられた。しかし、正規の音楽教育を受けていない私には、ピアノの音に合わせての正確な声はすぐには出てこなかった。


         64歳とは思えぬ若さと行動力


 翌17日から午前3時間、午後3時間あまりの授業を1日も休むことなく受け続けたが、決して飽きることはなかった。
 彼女の教え方は精力的だった。64歳とは思えぬほど若々しく、休む間も無く教室を動きまわるのだった。この小柄な歌姫が、時折、声を出すと、教室に一瞬のうちに静寂が訪れ、耳を楽しませてくれる。声の出し方が微妙になるたびに、彼女は生徒に基本を徹底的に繰り返させる。ある日、授業の帰りに、カフェで、自分が教えていることは、私が最初の先生に習ったことを今、あなたたちに教えているのだと告げた。自分は2ヵ月でマスターしたとも。
 彼女の中間音は決して落ちなかった。腹部の回りは総て振動させて、目の下から胸部までを開くことによって、声を出しコントロールさせる技術は、ジャンルを超えて学ぶ事が沢山ある。彼女が教えた通り試みてみると、実際に強く、高く響く声を発することが出来るのだ。本当にこの技術を学び得たのは嬉しい事だった。
 13年前の声の記憶が、私に与えた影響は大きかった。だから「声ノ力」と「声ノ質」とを最大限に発揮出来る肉声による「即興朗唱」という新しいジャンルを興したのだった。
 3週目、彼女が突然、「あなたはいつも1番に教室にいるね。来週から一緒にイギリスに行かないか」と言った。こんなに熱心に勉強するとは思わなかったに違いない。子供のような学生たちと席を同じくしての40の手習いの3週間は、あっという間に過ぎ去った。


       『毎日グラフ』(1990年10-14号)に、写真9葉と共に掲載される。
       これが写真家としての、記念すべきデビュー作品。

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2005/03/06

文化としての書物か、消耗品としての大量印刷物か

パリからの出版依頼で、知らされた活版文化継承の必要性


                      天童 大人

        頭の中が真っ白

 パリ市内のレストランで会食中に、初対面の出版社の社長から、突然、テンドオの作品集を出版したいと言われ、頭の中が真っ白になった一瞬の刻のことをはっきり覚えている。
 昨年(2000年)の11月23日、パリ7区にあるイリアナ・ブブリス画廊で、今年40歳になるスイス・ローザンヌ在住の彫刻家イヴ・ダナの12年振り、二冊目の作品集『DANA』(セルクルダアート出版社刊)の出版記念展覧会のオープニング・パーティが盛大に行われた。
 その後、近くのレストランを借り切って親しい人々によるディナーパーティがあり、遅れて会場に入った私は、手招きしてくれたダナの両親の前に座った。右側には一組の夫婦、その奥には、今日出会ったばかりの写真家アンドレ・ナガール夫妻。ナガールはダナの父親とエジプト・アレキサンドリア時代からの友人で、ダナと同じ出版社から、同じ版型の作品集を刊行していた。そしてダナ夫人の横に座って、誰とも親しく会話を交わしているひとりの紳士がいた。私が隣の夫人に、即興朗唱詩集『大神 キッキ・マニトウ』の仏語だけの小冊子を渡すのを見て、彼は、私にもマニトウが欲しいと言った。何も言わないのに、何故、彼が知っているのか訝しく思いながらも、私は鞄の中を捜したが無いので、名刺を下されば後で送ると言うと、彼は微笑みながら名刺を手渡してくれた。
 同朝、本代を支払いに行った『DANA』の出版社の社長だったので、私は驚いた。続いて、社長が冒頭の言葉を言ったのだが、同席した誰もが驚いてはいない。結局、二日後、出版社で社長に会い、話を聞いてみると、私の「字」の作品、写真の作品、そして詩作品の三本立てで編集する考えを示してくれた。

        何故、無名の私に

 しかし、巴里にだって日本人のアーティストが、沢山住んでいる筈だし、日本にだって有名な作家が大勢いるのに、何故、無名の私に白羽の矢が当たったのか。もし、これが事実なら、日本にいる多くの無名のアーティストにも、海外で作品集が作れるという、大きな励みになることではないか。この出版社から、日本人作家としてはただひとり画家の菅井汲が作品集を刊行している。
 後日、ローザンヌで、イヴ・ダナに再会した時、何故、この「私」なのかを訊ねた。社長は、以前から機会があればテンドオに会いたがっていたこと、十年前のグリフォン社との交渉、自分とテンドオとの関わり合い方などをずうっと見守っていて、テンドオに関心を持っていたと言う。異国の出版社の社長が、私の動きや仕事に注意を払い続けてくれていたなど、夢にも考えたことなどなかっただけに驚くばかりだ。
 帰国後、作品集『SUGAI』(リブロポート刊)をじっくり見て、あの疑問が氷解した。評論を書いているジャン=クララン・ランベールに、三年前、コロンビア・メデジンでの第七回国際詩祭で出会っていたのだ。
 その時、活版印刷で作った私の二冊の詩集『エズラ・パウンドの碧い指環』(北十字舎刊)と『大神 キッキ・マニトウ』(北十字舎刊)とを贈った。彼は印面を指先で撫でながら、美しい書物!と言ったフランス代表の詩人だった。だから社長はこの詩集を、マニトウを見て知っていたのだ。
 活版印刷で刷られた書物をリーブルと呼び、大量印刷の本をプリンティング・マターと呼び分ける。
 私が一冊の書物の重要性を識り、活版印刷での詩集を作っているのを知ったからこそ、私の作品集を作りたいと考えたのではないか。
 今、東京で活版印刷が出来る印刷所はほんのわずかだ。活版印刷文化を維持し、守ろうといった国家的な動きは
どこにも見えなかった。いつの間にか「書物」が、この国から姿を消しつつあるのが現状だ。

            通用する作品を

 今回、実際に異国での出版の申し出を受けてみて、作品のポジフィルム、フランス語訳の作品クレジット、評論、年譜、展覧会歴などすぐに対応出来ないことがはっきり分かった。恐らく私だけではないだろう。
 国際的に通用する作家を目指しながら、パスポートとも言うべき作品集を一冊も持たない、国内でのみ有名なだけの作家が余りにも多いのではないか。
 十一年前、イヴ・ダナの初めての作品集を見て、彼の才能を発見すると同時に、一冊の書物の持つ重さを熟知してから、出会った数多くの作家たちに作品集を持つ事の意味を語ってきた。その私に、外国から作品集を作る話が舞い込んで来る時代だ。
 いま一度、志ある作家たちは、世界に通用する書物として、自分自身の作品集について、熟考する時ではないだろうか。


        公明新聞(日曜版)  2000年3月19日に掲載

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2005/03/02

  さよなら 画家 KEIZO

         イタリアで花開いた画家 KEIZO

             作家生活37年、90回の個展

 
                     天童大人

                     
 ミラノ在住で友人の画家KEIZOこと森下慶三さんが、去る4月5日(2003年)、突然の事故のため、亡くなったと7日の夕方、ミラノに住む友人から伝言があった。
 日本でKEIZOの知名度は低いが、彼は1944年、北九州市生まれ。高校卒業後の進路を決める為に、当時(62年)の知識人たち(川端康成、坂本繁二郎、佐藤忠良ら)を直接、訪問して意見を聞き、63年奨学金留学生として、イタリア・ミラノの国立ブレラ美術専門学校に入学。彫刻科マリノ・マリーニ教室で学び、67年、ブレラを卒業した戦後初の日本人留学生であった。
 同年、パドバでの個展でデビュー。69年、国内コンクールで新人賞を受賞し、ミラノの有名な画廊、スタジオ・マルコーニの契約作家に為った。またデザイナーのピエール・カルダンがミラノに、初めてブテックを開店する時、KEIZOの大作を購入し、店内に飾ったことで一躍有名になった。
 作家生活37年間で90回以上の個展をイタリア各地、ヨーロッパ、日本、韓国等で行い、絵画市場と批評とで認められたヨーロッパの画家のひとりであった。
 私がKEIZOの作品を見たのは76年、パリ。色はイタリアの抜けるような空の青。今までに見たこともない、明るい色彩の繊細なモザイク。とても新鮮だった。今なら島国・日本を描き続けていた事がはっきり分かる。彼に初めて会ったのは、日本で最初の個展のため帰国した79年、自由が丘の画廊でだった。
 同年齢でもあり、4年余りヨーロッパに滞在した経験から、彼に私の第1詩集『玄象の世界』(81年刊)の装画を頼んだ。その後、ヨーロッパに行くと出来る限りミラノを訪れ、彼のアトリエに泊めてもらい、街に出て、様々な人に会いながらいろいろと話を聞いた。この美術界の先達の言葉は、ことごとく的を射ていた。

 「テンドオ?ケイゾオだけど、どうしているの?」。
 突然、電話から響く、あのアルコールを帯びた懐かしい声を、もう聴けない。彼の人柄で長い間に培ってきた詩人、画家、評論家、コレクター、画廊等のイタリア文化の豊かな人脈は、残念ながら誰にも受け継ぐことはできない。
日本のためにも誠に惜しまれる不幸な出来事なのだ。
私にはまだKEIZOが亡くなった実感がない。

 「どうしているの?ケイゾオさん!」
 本当にありがとう、KEIZO.さようなら!

                        (詩人)

   四国新聞   2003年5月5日号 掲載
   日本海新聞  2003年5月7日号 掲載
   秋田魁新報 2003年5月8日号 掲載
   愛媛新聞   2003年5月8日号 掲載
   長崎新聞    掲載日時不明
  信濃毎日新聞  掲載日時不明

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