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2005/04/23

彫刻家・ブランクーシの旅

      パリでの出会いに誘われて・・・         

     野外彫刻の魅力


                         詩人 天童 大人

 5月30日(1992年)の午後、ルーマニアの古都、シナイアの修道院で行われたシカゴ在住で友人のアーティスト、ギョクチョ・由美子氏の息子の結婚式に出席した。日本人は由美子女史と、友人で鎌倉・小町通りでイタリア料理店を経営しているH女史と、大森でカメラ店を経営しているH氏と私の4人である。
 午後6時から始まった披露宴は、音楽が入り、歌や踊りと延々と8時間余り続き、宿舎として借り切っているビラに戻ったのは午前3時。花嫁の兄に、彫刻家・ブランクーシの野外彫刻作品を見たいので、前もって車の調達を依頼してあった。
 ここシナイアからトゥルグ・ジュまでどの位の距離が在るのか、見終わってからブカレストまで何キロで、何時間かかるのか全く分からない。ビザ申請の時、日本のルーマニア大使館で貰った地図でも良く分からなかった。観光案内書の何処にも「ブランクーシ」という文字は無く、日本で唯一のブランクーシに関する著作である中原佑介著『ブランクーシ』(美術出版社刊)から、必要な部分をコピーして持参した。
 この5月 イサム・ノグチ展の最終日の会場で、美術雑誌の編集長のS氏からも「ブランクーシを見てきたら?折角、ルーマニアまで行くのだから」と言われた時も、やはり行くべきか?と思った。
 彫刻作品がが好きな者なら、1度は自分の眼で、ブランクーシの野外彫刻「無限柱」、「接吻の門」、「沈黙の円卓」、「祝祭の円卓」等を見てみたいと考えるのではないだろうか。
 かってパリで生活していた時、近代美術館で、「ブランクーシの部屋」を見た時の鮮烈な印象が、今でも鮮やかに残っているから、今でも見たい、と言う強い情熱を支えているのかも知れない。
 最も迷惑だったのは写真仲間のH氏ではなかったか。ブランクーシが何者かも分からずに、連れて歩きまわされただけだったかもしれないから。
 しかし、世界中の多くの人々が、1度は自分の眼で見て、確かめたいと思っている物を、無理矢理見せられて、幸運と言うべきか、不運と言うべきか、後の事は本人次第だろう。日本人でも数える程の人々だけしか、実際に見て、触ってはいないのだ。


       1日掛かりのタクシーの旅

 長い披露宴の後で、体が疲労している筈なのに、なかなか寝付かれなかった。人の聲の気配で目覚めたのは8時を過ぎていた。旅行鞄に何時でも出発出来るように、礼服から洗面道具を詰め込み、ロビーに出た。
 「車は?」と問うまでもなく、「大丈夫だ」と言う。間もなく、結婚式の時にも動いていたタクシーがやって来た。中から地図を持った老人が出てきた。早速、道調べ、道選びから全走行距離と使用時間が計られる。
 約950キロ、12時間余り、ブカレスト市内の友人の家まで案内するという条件付きで、二つの旅行鞄と二人分のタクシー代は?最後にお教えしょう。
 H氏も渋々同意して、朝食抜きで挨拶もそこそこに、直ぐ出発した。すぐシナイアの市内を後にするのかと思うと、街中を巡り、一軒の家に案内された。コーヒーやビールを飲めと言う。一家揃って歓迎という訳だ。ともあれ老人と娘婿と二人が交互に運転して行くという。
 シナイア市内を出て30分位走った時、突然、車を止めた。自動車の上に付いている”TAXI”という電気灯を取り外し、トランクに仕舞い込んで、再び走り始めた。
 ルーマニアの中央部を横断して行く町々や村々の風景の中に、1度も目にした事の無い人間の顔も在った。そして6時間余り走り続けて、右側に「無限柱」をみつけ、慌てて車を止めて貰った。カメラを手に駆け出し写真を撮る。作品に手を触れてみる。誰がしたのだろうか、台座部分にナイフで刻んだのか落書きが在った。
 「祝祭の円卓」が近くに在る筈だが、何故か見付からない。近くの若者たちに尋ねようとしたが言葉が全く通じない。困ったと思った時、コピーの事を思い出した。「祝祭の円卓」の写真コピーを見せると指先で教えてくれた。そこには草ぐさに埋もれるように、ひっそりと「祝祭の円卓」が置かれて在った。再び若者たちに「接吻の門」と「沈黙の円卓」とのコピーを見せると、教会の方を指差した。再び車に乗り込み、市内の駐車場で1時間後に再会する約束で別れた。そして急いで「接吻の門」を探した。門の横に置かれてある、石で制作されたベンチにも腰を下ろしてみた。そして「沈黙の円卓」にもやはり座ってみた。無我夢中だった。そしてこれらブランクーシの彫刻群の中心である教会まで足を延ばしてみた。あっという間に1時間は経った。
 午後6時半、我々はブカレストめがけて出発した。1度だけ休息し、ブカレストに到着したのは午前1時。其処から彼らは帰る途中で、屋根の上に「TAXI」の看板を、再び取り付ける事だろう。
 1日がかりのタクシーの旅は無事に終わった。タクシー代は二人で180米ドル。この安さについて、私はもう言葉も出ない。有難う。

  公明新聞(日曜版,1992年10月25日)に、写真,ブランクーシ作品「無限柱」一葉と共に掲載、より         

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2005/04/20

イタリアの『テルツィーナ』叢書に寄せて

         志の高い書物


                    天童 大人


 昨年(1997年)から、イタリア・ミラノにある詩書と芸術関係の専門出版社・セヴェルニーニより、注目すべき叢書が刊行されている。
 叢署名は『TERZINA(テルツィーナ)』。素材には、イタリア・シシリー島の東岸シラクーサでエジプトに伝わるパピルスの技術を用いて制作された、30センチ×71センチサイズの手漉き紙を用い、三折りにして手造り製本。年二回、イタリアの著名な三人ずつの画家のサイン入りオリジナル版画作品によって限定120部制作される。
 30部は画家の分、30部は出版社の分、30部は世界の主な国公立の図書館に寄贈し、保存して貰う。残りの30部はこの企画に参加した画家同士の交換分で、他の全ての画家の作品を、各一部ずつ持つ事により、画家自身による作品の保管が行われ、かつ画家には金銭的な負担が一切ない。
 わが国の美術界や出版界少しでも触れた者なら、誰もが不意を衝かれた企画だと思うだろう。
 この国も、出雲、越前、土佐など手漉き紙の伝統があり、活版印刷技術もあり、詩人も画家も大勢いて、出版社も編集者も沢山いながら、世界に伝統的な技術の保存を呼びかけ、未知の画家同士をつなげて行く夢のある仕事が、いままで生まれなかったのは何故なのか? 
 ミラノの小出版社の二人の若者の志の高さと企画力と実行力と、そして想像力に遠く及ばないとは、日本の”文化国家”が聞いて呆れる。
 『テルツィーナ(傍観者・三ッ折り)』の命名者で、かってノーベル文学賞の候補者にもあげられ、画も描く詩人のロベルト・サネージがこの叢書の第一巻となった。第二巻はセルジオ・ダンジェロ、第三巻はフリオ・ル・パルク(1966年のヴェネチア・ヴェンナーレ大賞受賞者)、第四巻はKEIZOこと森下慶三、第五巻はマリオ・ロオゼェロ、第六巻はアントニオ・テルツイ。 この六冊は既に、東京の国立国会図書館に寄贈されているので、関心のある方には、是非、直接手にとって見て頂きたい。
 今年度上半期分は、第七巻にバレエリオ・アダミ、第八巻に天童 大人、第九巻にエンリコ・バイがそれぞれ刊行された。
 シリーズ中、黒白の「字」の作品は私の「黄道日」のみ。これも、友人でミラノ在住三十年余り、彫刻家マリーノ・マリーニ教室で学んだKEIZOから昨年9月、ミラノで「何か描いてみないか?」という一言と渡された二枚の手漉き紙から、この叢書の存在を知ったのだった。また、高名な画家バレリオ・アダミとエンリコ・バイとに挟まれて、刊行される事が分かったのは、今年四月下旬、番号入れと雅号印を捺しにミラノに行き、初めてセヴェルニーニの経営者、ロベルトとマッシモとの二人に会った時だった。
 決して経営状態が良いとはいえない状況下で『TERZINA』を世界に送り出している事を知った時、真のイタリア文化の懐の奥深さと受容力と、未知の文化と人とに対する心配りを肌身に感じた。と同時に、建前と本音とを使い分け、幻想と現実とを見誤り続けてきたわが国の姿を、私は垣間見た。


      (てんどう・たいじん=詩人・朗唱家・字家)

       東京新聞 1997年8月21日号 掲載より。


追記 文中の画家KEIZOこと森下 慶三氏は 2003年4月5日 
     ミラノで不慮の事故の為、死去。59歳。
     エンリコ・バイ氏は2003年6月15日 死去。75歳。
     ロベルト・サネージ氏は2001年1月 肺ガンの為、死去。71歳。
     

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2005/04/10

ヘンリー・ミラー  △の世界の住人 

      ヘンリー・ミラー  △の世界住人


                       天童 大人


 作家ヘンリー・ミラーに付いて他人と話をした事は、ほとんどと言って良いほど無かった。唯一度を除いては。それはほとんど偶然のように起こった。
 ミラーは偶然と言うものは無く、全てが必然だと言う。この一瞬の出会いもまた私にとって必然な出来事だったのだ。
3年前(1984年)、日本橋のTデパートで行われた或る女流陶芸家の個展の会場で、美術評論家の久保貞次郎氏に出会った。
 その場で初めて言葉を交わした久保氏と、ミラーについて私の感じている事を有りの儘に話した。数日後、久保氏から『ヘンリー・ミラー絵の世界』、『ヘンリー・ミラー』の二冊の著書と共にヘンリー・ミラーの版画作品「塔と畑と人物」と「プレーズ・サンドラール」との2点が贈られて来た。今、それらの作品は私の身辺を飾っていて、目を楽しませてくれている。
 それからが大変だった。殆どと言って良いほど(『ランボー論』、『わが読書』、『北回帰線』等を除いて)ミラーの著作を読んでいなかった、或は持って居なかっただけに、入手することに専心した。
 『描くことは再び愛すること』、『不眠症あるいは飛び跳ねる悪魔』等を古書店で探し出した。どうしてもその時に見つからなかった『わが生涯の日々』だけは、久保氏に御願いして送って頂いた。そして1968年 東京で行われた『ヘンリー・ミラー絵画展』とカルフォルニア・ビッグサーに在るコースト・ギャラリーのカタログ『Henry Miller Returns to Big Sur』の貴重なカタログをも頂いた。そして古書店に有った石版画『地震のあと』、セリグラフ『寂しい婦人』をも手に入れた。新潮社から刊行されていたヘンリー・ミラー全集も何故かすでに絶版で、一冊ずつ丹念に古書店から、文庫本の訳本等と共に集め始めると同時に、少しずつ読み始めた。

「人々は性の問題に就いても、他の事柄と同様に、正常とか異常ということを口にするが、正常というのは統計的なことなのであって、例外を認めず、世界の大多数の男女にとって真実であることを基準にしているのである。所が、この大多数にとって正常であり、健全であることは、天才の行動を支配している法則の鍵を求める段になると、どれだけの意味を持つものであろうか。天才はその作品と行動を通して、或る一つの真実の勝利に寄興する為に戦っていると言える。そしてそれは、人間は銘々、独自の法則に支配されているものであって、自分自身の実体に特有の、同じものが二つあることは決してない性格を発見し、認識することによってしか救われない、ということである。」(『性の世界』吉田健一訳)

 1940年に発行されたミラーの本の一節を抜き出してみても、陰湿なこの国の風土の中では約五十年経た現在でも、「人間は銘々、独自の法則に支配されている」ことを未だに自覚出来ない人々が多すぎるのだ。
 ヘンリー・ミラーが宗教的作家であると直識した私にとっても、
 「もしも人間が自分の欲望のもっとも奥深くまで達するなら、猥褻と思うことなどなくなってしまうだろう、自分が無意識のなかで、諦めつけ抑えつけ押し殺しているものを、口頭にせよ形にあるものにせよ、明確な表現で突きつけられることなのだ。」(『追憶への追憶』)を、徹底的におし進めて行くと、その先にある宗教的な世界に、到達するだろう。「性」そのものが大問題なのではなくて、「性」を考える方法を、自分自身の問題として徹底的に追求もせずに、観念的、知識的に、あまりにも手軽に扱えるものだと思いこんでいたことが問題なのだ。ヒトの真実を求め、見つめ、それらを表現することと猥褻が不可分な関係にあることを多数の人々は認めなかった。認めることが出来なかった人々は、自分が、いつのまにか人間の仮面を被った獣であることをすっかり忘れ、ニ足で立つヒトのつもりであった。そこに殺人以外は全てを経験したと言うヘンリー・ミラーと名乗る真のヒトが現れた為に、大多数の人々のアイデンティティが脅威に曝された。
『北回帰線』の発売禁止は大多数の○の人々の脅威の証しであった。考えてもらいたい。今日、発売禁止になった小説が、また拘束された小説家が居るだろうか。恐らく大多数に買って貰うことを願う作家が氾濫し、生き様に魅かれる作家もほとんど居ない。一流は何処にも居ず、三流が一流と錯覚している時代に栄える文名は時の徒花(あだばな)にすぎない。 書き流された大多数の作品が、自己が無いゆえの歴史の徒花に過ぎないことは、いずれ歴史自らが証すことだろう。

 「我々は何れも各種の可能性を自分の内に持っていて、法律とか風俗とか言うものは我々の社会生活、他人と共同に営む生活にしか関係がなく、そしてその社会生活なるものは我々の存在の極く小さな一部分をなしているに過ぎない。我々の生活は実際は、孤独とともに始まるのであって、大勢一緒になった時にどうしていたかということの結果でしかないのである。我々の生活の各段階、又その転機は、本質的に沈黙から生まれてくる。我々は凡てを偶然の仕業に帰して、本のペエジが自然にめくれるという風なことを言っているが、或る出来事が偶然に起こるということはないので、それは我々自身によって知らぬ間に準備されたものなのである。我々がもう少し明晰な意識を持っていたならば、どんな出来事もそのままですみはしないに違いない。どうかすると、我々はいつもより心身がよく調和して、頭が冴えていることがあり、そういう時に所謂、事件が起きるのである。併しどんな出来事でも、何のことはなしにただ起きるということは決してない。我々人間の世界の、どういう分野ででもそうなのではないかと思う。物事を見る眼を持っているものは、凡ての出来事からその意味を汲み取る。そして彼自身がそういう出来事の影響を蒙るのみならず、結局は、そのために宇宙全体に変化が生じるのである。我々から遠距離にある幾多の世界が或る体系の一部をなしていると考えられる時、どうして我々人間の世界だけが例外であり得ようか。併し我々の運命を支配しているものが単なる混乱であるとしか見えなくても、その背後にある秩序まで眼が届く人間も偶には現れて、そういう人間は我々に命令する力を持っている。」(『性の世界』吉田健一訳)
 
 敢えて長い文章を引用したのも、この中に、占星術師ヘンリー・ミラー、幻視者ヘンリー・ミラー、心理学者ヘンリー・ミラーなどが容易に一望出来、この単純で判り易い文章の内に、奥深い道理が秘められているからだ(ぜひもう一度、熟読願いたい。)
 何か絵を描いて見たいと思い、実際に絵筆を持って、キャンバスなり、白い紙に向かって試みてみた事がある人なら、誰もが自分の思うように描けないことに驚くであろう。絵画技法という別のシステムを用いなければ、思うように、感じたように、ヒトは絵を描けないようだ。しかし、ヘンリー・ミラーの絵を見た事がある者なら、彼はやはり、絵画の分野でも「真のヒト」であることに思い至るであろう。
 自由自在な色彩と線、それは誰もが簡単に出来る事ではない。彼の絵画作品の全てから受ける印象は、作者ヘンリー・ミラーが内に持っているイノセントである。技術などを超えた作者自身が如実に現される絵画の世界で、ミラーの「自由さ」がよりはっきり分かりえる。これだけの自由さを持ちえた画家は、絵画の世界でもそう多くはない筈だ。いや、常にヘンリー・ミラーは少数者の世界、△の世界の住人なのだ。大多数の○の世界からは、踏み込む事も、訪れる事も叶わぬ世界なのだ。あらゆる汚辱を突き抜けたところにある「聖」の世界に到達した真のヒト、それがヘンリー・ミラーと言えるだろう。
 今後、恐らく作家ヘンリー・ミラーが表現し得た世界が、大多数を占めるこの世の○の世界の住人からは、ますます縁遠くなるであろう。
 しかし、それは歴史に残るヒトの運命なのだから、ヘンリー・ミラーも喜んで甘受できることであろう。


  「ヘンリー・ミラー研究会会報 第2号」(1987年4月20日、跡見学園短期大学図書館内 ヘンリー・ミラー研究会 発行)に掲載。

 追記、文中の美術評論家 久保貞次郎氏(跡美学園短大学長、町田市国際版画美術館館長、1996年10月31日、87歳で逝去)は、1988年 東京・夢土画廊で開催された画廊企画展「源初展」(大沢昌助、村井正誠、中川幸夫、砂澤ビッキ、酒井忠康、天童大人)に来廊され、小生の字作品を1点、買い上げ下さった。これは私には大きな励ましであった。また勤務先の跡見学園女子短大のご自分の授業時間に招いて下さって、友人のアメリカ人の女性と共に自作詩朗唱を行い、帰り謝礼として二人にヘンリー・ミラーの版画を下さった。感謝!この文章を打つ事で、 私もヘンリー・ミラー研究会会員に為っていた事を、思い出した。

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2005/04/05

第16回-聲ノ奉納 in 対馬・和多都美神社ー

天童大人 UNIVERSAL VOICE 公演 in 対馬・和多都美神社

         - この水の惑星に平和を ー


    ( これは今年の「聲ノ奉納」のご案内ですが、無事に青天の中終える事が出来ました。)

      
    2005年5月8日(日)  14時41分 開始

 長崎県・対馬市・豊玉町・和多都美神社、海中の一の鳥居

 1972年8月、ギリシア・パルテノン神殿に聲を収めて以来、世界各地の聖地で「聲ノ奉納」を行って来ました。 1983年秋、そして1990年から、毎年、5月か6月の新月の日に、ここ対馬・和多都美神社で、「聲ノ奉納」を行い、この聖地から、密かにこの水の惑星の平和を願い、聲を刻み、打ち続けて来ました。
 2002年3月21日、春分の日には、イタリア・ヴェローナのアレーナ(野外劇場)で、来るべき春に対してのオマージュと、2000年の歴史を持つこのアレーナに対してのオマージュと、ノーベル文学賞候補にもなり、イタリアから版画でデビューする機会を与ええくれた詩人ロベルト・サネージに対してのオマージュと、併せて世界平和を願って、単独公演を行いました。
 この和多都美神社で長い間、鍛えていましたから、アレーナに1歩踏み込んだ瞬間、小さい、と直識しました。この感覚は、あらゆる場に立つて聲を出す者としては、特に大事な感覚です。
 古代、皇帝が立つた場に立ち、45分間、思いっきり、聲を出しました。後日、公式の記録ビデオテープ(約15分)が届き、数多くの未知の方々が聞いていて下さって、喜ばれていた事を初めて知りました。
 もし、関心が御ありなら、何時でも、ビデオテープはお貸し出来ます。ご遠慮なく、下記のメールアドレス宛に、ご連絡下さい。
 古代の「聲ノ道」を発見して今年で22年目。連続して16年目を迎えた「聲ノ奉納 in 対馬」。
 「魂」の形を聲で見る「UNIVERSAL VOICE」を体験してみませんか。


             連絡・問い合わせ
 
        天童朗唱・トライアングル事務所 
      

 追記 文中にある、「UNIVERSAL VOICE」 と「直識」とは、天童大人による商標登録(印刷物)です。ご注意下さい。
 
この「聲ノ奉納」に関しては、5月1日の毎日新聞の4面にある"文化劇場”欄に、酒井佐忠専門編集委員によるー声と言葉の源へ分け入る天童大人さん「声の奉納」ー が掲載された。御一読を乞う。
また漫画家の萩尾望都さんから、突然、メールがあり、前日の7日に対馬へ。8日の奉納ノ聲を聴きに行くとの連絡を受け取った。(感謝感激)。(2005年5月1日)

 2005年5月9日の読売新聞 長崎版と佐世保版に、また5月10日の長崎新聞にもカラー写真一葉と共にこの「聲ノ奉納」の紹介記事が掲載されました。
 漫画家、萩尾望都さんは「身体にたまった声を自然に返しているようで、原始宗教のような感じがした」とのコメントを残されています。
来年もまた第17回「聲ノ奉納」は5月か6月の新月の日に開催されます。(5月12日:記)
この対馬の場に於いて16年間、聲を出し続けてきて、今年は、磁場が変わり、亀裂が入って、聲が伸びていきませんでした。近い将来、この地域で、再び大きな地震が起きても何も不思議ではありません。大きな地殻変動が起きています。ここに改めて、記して置きます。(5月25日:記す)

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2005/04/02

カタロニアの聖地・モンセラにて聲ヲ発スル

    カタロニアの聖地・モンセラにて聲ヲ発スル


                天童 大人(詩人・朗唱家・字家)

 もしスペインに住みたいと考えれば、誰もが南スペインをすぐに想い浮べるであろう。
 しかし、私は一昨年(1989年)の十月に、初めてマドリー、バルセロナ、フィゲラスを訪れるまで、パレンシアから南へは一度も降りていかなかった。その理由は、今となっても正式には明かせないのだが、ともかく日本人には珍しい、北のピコ・デ・ヨーロッパ山脈の裾に住んでいた。アラブの侵略にも犯されず、日本人を見たことも無い真のスペイン人の人々の中でだ。ポーテスからビスカイヤ湾まで、二十数キロの距離を一生埋める事も無く、海を見たことも無い友人になったペペの妹に、「海」や「波」を説明する事がどんなに大変だったかを、今では懐かしく思い出す。ともあれ、何故か、何が原因なのか、1989年10月、スイス・ローザンヌに、若き天才彫刻家イヴ・ダナを訊ね、会談した後、ユーレルパスを用い、パリ、マドリー、バルセロナ、フィゲラス、フィレンツェ、ヴェネチア、ミラノ、パリと美術館と画廊巡りの旅に出た。マドリーには友人の画家堀越千秋が住んでいたし、ミラノには門司出身の画家KEIZOこと森下慶三が住んでいた。マドリーでは画家になろうとしているS・Y嬢や、フラメンコダンサーの修業に来ていたM・Y嬢や画家と共に、ビノを飲み歩いたものだ。一緒にタブラオに聴きに行ったカンテ・フラメンコがあまりにも下手だったために、自分でも聲を出したくなったが、マドリーではその気が全く起こらなかった。古代祭場跡や劇場跡、聖地と聞けば、必ずと言って良いほど、「聲ヲ発シ」てきた。だからモンセラがカタロニア地方の聖地と聞けば、聲を出してみようと思うのは、私としては当然の行為であった。
 
 ロープウエーを降り、ベネディックト派の大修道院を右手に見ながら、ゆっくりと小さな電車が昇り、降りた小屋の後ろから、道伝いに歩き始める。この奇岩群に登ろうとする岩登りのグループの男や女たちとすれ違いながら、歩いて行くと、もう何処にも人影は見なかった。
 この山中まで観光客は、来ないからだろう。自分の荒い息と風の音だけが聞こえてくる。
 1972年冬、スペイン山岳協会のメンバーになって、北スペインの山々を歩いた脚力は確実に衰えていた。でも歩きながら、聲を出したい場所に立つと、聲ヲ発スル。かって天皇の行幸の折、道の曲がり角や峠でも出す吠声(べんせい)と言う聲が在った事を思い出した。
 聲は出た。しかし、今なら聲は余り出ていなかったと言える。というのも昨年7月のザルツブルグでの不出世のソプラノ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカヤの三週間のマスター・クラスを受講し、ガリーナ教授の教えてくれた通りを実践していると、全く喉が痛まなくなり、自由自在に聲が出るようになっている事を、今年になって行った朗唱会(1月27日での甲府)で確かめる事が出来たからだ。
 
 聖地であることを確認するには「聲」が重要であると私は考えている。だから様々な聖地で聲を発しているのだ。
 平地の中に突然、突起しているこの奇岩群にどのような力が宿っているのか。
 それはカタロニア文化の力のバロメーターでも在る筈だ。だから標高1236メートルのサン・ジェロニモ展望台に立つと、四方に向かってゆっくりと聲を出してみた。思っていた反応が自分の肉体に起こってきた。16年前、ピレネー山頂で、聲を出した時の感覚が蘇って来たのだ。全く忘れていただけに本当に嬉しかった。この修道院を訪れる観光客の誰もが見ると言う「黒いマリア像」を私は見ていない。しかし、私には全く悔いは無い。何故なら観光客ではないからだ。だから未だ南スペインは知らないと言えるだろう。カタロニアの聖地で、久し振りに自然の中に身を置く事が出来たのでほっとした。
 そして3年前、友人たちと共訳した『ロルカ・ダリ』(六興出版刊、現在、絶版)のダリの美術館のあるフィゲラスめざして出発したのだった。

月刊「中州通信」( 福岡、刊1991年3月号)に写真四葉と共に掲載。連載「内なる宇宙を求めて No 12」より。
追記 文中のフラメンコ・ダンサーの修業に来ていたM・Y嬢は、現在、活躍中の安田光江フラメンコ塾の塾長、安田光江女史のこと。その後、1999年秋、セヴィージャ近くのドスエルマノスに3週間滞在した。

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