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2005/05/26

戸川エマ 遺影に使って・・・・・と言って

文化学院・文科科長 戸川エマ先生  遺影に使って・・・と言って


                          天童 大人


 厳寒期の冬の北海道を聲を発しながら巡る「北ノ朗唱」を吉増剛造氏を誘い、始めて今年(1987年)で五年目になる。
 今年は二月十九日の函館から石狩、稚内、置戸、釧路、帯広と三月三日までの十三日間、吉増剛造、高橋睦郎、白石かずこ、平出隆、安西均、新藤涼子、八木忠栄氏らと道内の詩人たちと共に巡りながら東京に戻って来た。留守中に届いた郵便物の中の一通に、東京・お茶の水に在る文化学院同窓会から、「戸川エマ先生の思い出について書け」との依頼状を見つけた。
 すぐ思い浮かんだのは、昨年の二月か三月に、文化学院の二階にある教員室で、私がエマ先生を撮った一枚の写真の事だった。捜し始めたが、ネガも写真も何処にも無かった。学院の図書館にある同窓会の係りに、締切日を訊ねると、原稿が集まらないのでごゆっくりで、との事。安心して日々の仕事に埋没して原稿の事はすっかり忘れていた。
 そうしたら、突然、というか突如、田上千鶴子氏より葉書が舞い込み、「天童大人ーに今度はなられた相ですが、それ以上大きくなってどうするのですか。いつぞやお願いした原稿、お待ちしていますので是非御願いします。内容は何でも、長さも何でも結構ですからよろしく。清島君も痛快な一文を書いてくれました。写真や絵画や詩もあって面白いものになり相です。ではどうぞ。」(原文のママ)とある。
 またまた捜し始めた写真だがどうしても見付からない。そうこうしている内に、かっての同級生の松下信子女史が、毎年、恒例の年一度のパリから帰国した。彼女とは何故か帰って来ると、必ず一緒にエマ先生と食事をご馳走になる。(どうしてこの会合が持たれる様に為ったのか分からないが)昨年も松下女史のパリへの帰国間際の五月末日、新宿の中村屋で待合わせをして、小田急ハルクの地下にあるレストラン街で、加賀料理をエマ先生にご馳走になった事を、昨日の出来事のように思い出すことが出来る。

 ところで写真は四枚焼いて、一枚をエマ先生、一枚を中村さん?一枚を松下女史、そして私と持っていた。その写真を昨年の三月の或る日、学院に届ける積りで訊ねたところ、戸川先生は写真を手に取りながら、「あまり元気がないわね。でも遺影に使って、最後の写真だから。」とさりげなく、あまりにもさりげなく言われるものだから、「なんですか、先生、縁起でもない。」と口に出して言いながらも、もしかしたら御自分では?とも思って、その場で話を打ち切った。
 1966年に卒業したのだから、もう4分の一世紀余り、エマ先生や、事務職の中村悦子さん(この人は、我々が入学した年に、文科を卒業して学院の事務職に勤めた人。この人の勤労ニ十周年記念を六六年度の卒業生を中心にしてやってあげようとのエマ先生との約束も遂に果たせませんでした。中村さん、ゴメンナサイ。)加藤守雄先生、田上千鶴子女史等、書くことは沢山あって書ききれない位です。

 六三年入学の文科の学生は百十名余り、男性10名、女性100名と言う、ともかく元気の良い、恐らく文化学院の黄金時代(第三期?)を担っていました。日劇のダンサーの女性や俳優の娘等、様々な学生がいました。
エマ先生は勿論の事、田上、中村両女史にとっても、決して忘れ去る事の出来ない学生たちでしょう。

 我々の卒業謝恩会は、赤坂日枝神社の脇に在った東京ヒルトンの菊の間でした。各自が勝手な事をやりましたが、私にとってはその時に行った事が、今の道を歩み始める第一歩に為る出来事だったとは夢にも思いませんでした。フラメンコギターラに為ろうとしていた白土征彦と、トイレで簡単な音合わせをしただけで、舞台に出て、彼の弾くギターの音に打ちつけるように詩を朗唱し、即興朗唱でも一編行いました。この時の聲が十数年経っても聲の記憶として、残っている事を後日、加藤守雄先生の話から知り、驚いた事を思い出しました。
 今、こうして書いている三週間前に、白土氏が大阪に住んで居る事を知り、十数年振りに、電話で話をしました。全く何が幸いするのか分かったもんではありません。学院時代に始めた同人誌「第二次 文学共和国」のメンバーも皆、健在で、年内にでも桂芳久氏を囲んで集うという計画もあります。
 ともかく、生徒の面倒見も良く、口喧しく叱っていた戸川エマさんは、文化学院のシンボルでしたから出来る限り長生きして頂きたいと願っていながら、あまりにもあっけなく亡くなられた事に驚くだけでした。
 亡くなる前日、六月ニ八日(土)、文化学院画廊では、第三回カリグラフィ展の初日でした。二年振りに行われたこの展覧会も、村井正誠さん、西村八知さん、大島龍との四人で始まり、会を追うごとに盛況になり、拡がりを持って来ていました。この時の作品をエマ先生に見ていただきたかった、と今では思います。

 ところで”ゴネ松”という私のあだ名は、中村さんか田上女史かが付けられた様ですが、それには理路整然とした理由が様々な場合に、きちんと在るのです。
 入学試験で英語の試験の時、和服姿の試験官が、教室を行き交いながら、甲高い声で注意し続けるので、「ウルサイ!出て行け!」と怒鳴りつけました。コソコソと教室から出て行ったのが、Aと言う高等科の女性教師でした。その後の、面接試験では、猿人が洋服を着ていると思われる人と和服姿の美人でいい女が並んで座っていました。それが宗教学の仁戸田六三郎先生と戸川エマ先生との初対面でした。その話し方といい、判断の素早さに、なんたって美しい人でしたから。その後の事は、余りにも沢山ありますから、今回は省略します。

 卒業式の当日、校長から各自が受け取る筈の卒業証書を、校長から受取る事は拒否しました。講堂は騒然と為りました。そこで校長は、貴方はエマ先生が好きだからと言って、卒業証書をエマ先生に渡し、エマ先生から受取る事になりました。授業料値上げに関する回答が、校長から得られないままの状態では当然、校長からなどから受取れないのです。式の終了後、新しい校舎の前で、記念写真を撮る時、仁戸田六三郎先生に、「お前が一番文化学院の学生らしい」と言われました。
 その後、各地で卒業証書ボイコットが起こりましたが、お前が走りだ、と桂芳久氏に言われました。
 入学一年目の学院は美しい建物でした。二年目から内庭、旧校舎が取り壊され、今の講堂の二階もベニヤ板で仕切って教室になり、今の事務室も教室に、庭も、遊び場も無く、すしずめの状態での学費値上げですから、怒り心頭に為るのは当たり前です。この騒ぎで卒業生で評論家の松尾邦之助氏も心配になったのか話を聞きに来られました。

 文化学院は一流大学並みの授業料を取っていましたが、講師の招聘や就職の斡旋を出来るほどの人脈を、学院創立者西村一族には、殆ど持っていませんでした。我々は、エマ先生に、お願いして、あの人の話を聞きたい、こんな授業を受けたいと、お願いをすると、どんな魔術を使われたか分かりませんが、必ずと言って良いほど聞くことが出来、授業を受ける事が出来ました。
 知的センスの良い、独特の嗅覚を持った人で、世間で有名に為る前に聲を掛けられて、学院に招聘して下さいました。この事は幾らエマ先生に感謝しても、我々は感謝し切れません。
 感性豊かな時代の我々には、とても有り難い、大事なことでした。

 ともあれ、戸川エマ先生には個人的に色々とお世話に為りました。
 八十四年一月に行われた私の第一詩集『玄象の世界』(永井出版企画刊)の出版記念会でも、ご挨拶をして下さいましたし、八十一年十ニ月に日本ペンクラブに入会した時の初めての例会にも出てくださいました。
 しかし、何と言っても残念な事は、八十三年二月十日、帯広から発した連作即興朗唱『大神・キッキ・マニトウ』を、何故か一度も聞いて頂かなかったことです。この六月一日現在で、四十一篇、北海道から金沢、対馬、鹿児島、シアトル、ニューヨークと聲を発し続けた肉声による表現である即興朗唱を、新しい表現芸術の一分野として、現代芸術の最先端に位置させるべく、日夜、聲・コトバ・唱と肉体・空間とせめぎあいの中で、一度は耳の記憶、声の記憶として、聞いて頂きたかったと思います。
 昨年三月、一年後輩で現在、スペイン・サンタンーデルに住んで居る山内雅子、そして小島素子(上智大卒)との三人による共訳で、『ロルカ・ダリ』(六興出版刊)をエマ先生にお渡し出来て、良かったです。

 「遺影に」と言われた写真を捜す事は諦めませんので、出てきた折には、ぜひ、本誌でご紹介下さい。
 ではエマ先生。夏の札幌で、朗唱を行う為に旅立ちます。

 聲は出る限り発しますよ、エマ先生!
  

               てんどう・たいじん  1966年文科卒。詩人・朗唱家。彼の一進一退は詩と音楽との新しい結合を創出する超絶パフォーマンス とでも称すべきか?


    「おだまき草 第一集 」 (1987年12月25日 文化学院同窓会 発行)に掲載に。訂正、補筆する。

追記:評論家で文化学院文科科長・戸川エマ先生は1986年6月29日歿 75歳
    作家桂芳久氏は2005年2月1日歿 75歳
    戸川エマ先生の依頼で、1970年4月から、文化学院文科の桂ゼミの助手を1971年1月まで務める。  
   即興朗唱詩「大神 キッキ・マニトウ」は2004年11月18日 アルゼンチン・ブエノス・アイレスに在るアルゼンチン国立図書館で行われた朗読会で、「大神 キッキ マニトウ」は第150編目を記録した。

 ところで縁あってこのページを開き、文化学院の戸川エマ先生の事を知っている方、或は1963年4月、文化学院創立者西村伊作が亡くなった以後に入学し、戸川エマ先生の薫陶を受けた学生たち、及びその父兄たちよ!
是非、文化学院のホームページを開いて、”文化学院の歴史”をクりックして覗いて見て下さい。
 驚きますよ。
 文化学院の歴史の1963年以降に、文科科長・戸川エマの名前は、何処にも記されて無いのですよ。 
 あれだけ文化学院の為に、個人の人脈をフルに活かして、働かれ、我々、学生の為に知的恩恵を充分に与えて呉れた戸川エマ先生の名前が、完全に抹殺されている、と言う事實は、残念ながら今の文化学院の本質を物語って居るのかも知れません。
アサヒビールでは大阪の吹田工場の近くに、先人の碑、が在り、社に対しての功労者やお得意様の名前を刻み顕彰していると言う。それに引き換え、我らが文化学院の姿勢は?

 もう一度、1963年以降、現在に至るまでの”文化学院”、を、関係者の皆さんで検証してみようではありませんか。如何でしょうか?
ご存知ですか?同窓会も、会費を持ち逃げされて、週刊誌沙汰になりました。その後の文化学院同窓会は如何しているのでしょうか?この際、膿みは全て吐き出させ、あの文化学院・第三期黄金時代、を彷彿させる人材を育成させる為にも、どんどん、”戸川エマ先生の活動”を顕彰してみましょう。何かヒントが在るかも知れません。 
今の文化学院に限らず、学校と言う組織には、エマ先生のような教育に携わるに相応しい情熱在る人材は不要のようです。
 今日のような不毛な状況だからこそ、戸川エマ先生のような情熱ある、学生が求めているものを先取り出来る知的センス有る人物が最も必要なのだが。
若い学生たちの為にも、全く残念な事です!

                 2005年5月26日記す。天童 大人
                                  

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2005/05/20

イタリア・シチリアに聲を刻む

        シチリアに聲を刻む


                   天童 大人

         航空会社総支配人の紹介から・・・・・

 昨年12月初旬(1998年)、シチリアに初めて行くと、アリタリア航空極東総支配人のロマノ・マズッコ氏に言うと、良い本が在ると言って本棚を探しながら、「ケイコ・コモリヤを知っているか」と訊ねてきた。知らないと答えると彼は何処かに電話を掛けた。彼が話すイタリア語を黙って聞いていると「友人のアーティストのテンドウが・・・」と紹介して、受話器を渡してくれた。女性の心地良い聲が聞こえてきた。それが『シチリアに行きたい』(新潮社刊)の著者、小森谷慶子さんだった。
 シラクーサで、パピルスの紙を探し、ギリシア劇場跡で聲を出したいと旅の目的を話した。家に戻ると早速、彼女から私の問についての答えが届いていた。追って書き込まれた「シラクーサ」の地図や雑誌「ア・ウイーク・イン・シシリー」等の関連資料が送られて来た。
 中旬、シチリアのカターニャ飛行場に、ミラノ経由で着いたのは真夜中だった。そこで出会ったタクシー運転手サルヴァトーレに、ホテルへの道行きのなかで、明日、シラクーサまで運んでくれる事を頼んだ。
 翌日、シラクーサのホテルに着くとすぐ、私は小森谷さんが書いてくれた地図と本とを持って、オルティージャ島の向かった。

     開放感に溢れた栄華誇る都市

 海からの冷たい風が気持ちよい。町はナターレ(クリスマス)を迎える為のイルミネーションの準備が始まっていた。グランドホテルの前の海沿いの道を岬に向かって歩いて行った。パピルス屋はすでに昼食時の為か閉まっていた。そこでレストラン・アルキメーデを探した。シチリア語で詩を書く詩人トゥーリ・ロベッラやあの週刊誌を発行しているドットール・ペッレソーティが食事をしていることを小森谷さんからの手紙で知っていたからだ。横の路地にあるレストランを確かめてからドーム目がけて路地を歩いた。歩きながら、何故か間違いなく島の中の島に居ることを感じた。
 シチリア島も島であり、このオルティージャ島も小さな島でありながら、広く開放された空間を感じるのだ。
 恐らく紀元前734年、コリント人によって建設され、前480年、ヒメラ戦役から前212年、ローマに征服されるまで、地中海海域で最も栄華を誇った都市であった過去の伝統の根強さと歴史の重みが、沁み込んでいるからではないか。
 私はこの町が、この小さな島が好きになった。
 ドーモの前から引き返し、レストラン・アルキメーデで食事をした。ここではケイコ・コモリヤは有名だった。考えてみれば、小森谷女史には未だ会っていないのだが、気分は旧知の友のような気がしていた>
 「アレトゥーサの泉」でパピルスが自生しているのを見た後、島内を隅々まで歩きホテルに戻った。
 観光局の人が訪ねてきている、とのフロントからの電話で起こされた。ロビーに下りて行くと、ケイコからの依頼で、と観光資料を私に渡し、何か困った事があればと電話番号を書き残して、アルバーニ女史は帰って行った。
 翌朝、ホテルの近くの床屋で髪を切って貰った。職人肌の主人が何も頼まないのに、いきなり水を付けただけで、口髭にカミソリを入れた。ここはマフィアの島、シチリア。生まれて初めてだったがシチリアの職人に、髭の形を整えて貰うのも悪くはないと考え直した。
 その後、歩いて近い考古学公園に向かった。二年毎にパッレソーティ氏等が企画に参加して、ギリシア古典劇を上演しているギリシア劇場跡は、期待し過ぎていたのか、思っていた程、良い空間ではなかった。


      邪魔をされずに思う存分の聲が

 しかし、天国の石切り場にある「ディオニュシオスの耳」は、評判にたがわず、素晴しい人工の空間だった。幸い誰にも邪魔されず、思う存分、充分に聲を出す事が出来た。
 黙って聞いていた警備員が、ここに立ってご覧、と教えてくれた場所で聲を出すと、響きはより大きく、強く増幅するのだった。
 夕方、ホテルに、ペッレソーティ氏が巨体を現し、私を事務所に案内した後、アルキメーディでの食事に招待してくれた。
 朝、約束の場所に、時間通り巨体は現れた。そして初めて出会った詩人トゥーリ・ロベッラ氏と共に、詩人の故郷でもあるシラクーサ郊外のパラッツォーロ・アクレィデのギリシア劇場跡に向かった。そこで私は二人の為に、自作詩を日本語で朗読した。
 巨体のドットール・ペッレソーテ氏が「テンドウはオープン・マインドだ」と言うと老詩人も、にこやかに肯くのを見て、二人に出会う機会を作ってくれたロマノ・マズッコ氏と小森谷慶子女史とに深く感謝した。


     公明新聞(1999年1月17日号)に写真一葉と共に掲載、補筆。 

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2005/05/14

ガリーナ・ヴィシネフスカヤの聲の記憶

       ガリーナの聲の記憶


                     天童 大人

 不出世のオペラ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカヤに一度だけレッスンを受けたい、また私の行っている「即興朗唱」を聞かせて、どんな反応があるのか知りたいと、長い間考え続けていたことが、今、まさに実現しようとしている。ここザルツブルグにあるモーツアルテイム音楽院の二階の薄暗い扉の前で、私は立ち止まり、もう一度名札を確かめてみた。
 マダム・プロフェサー・ガリーナ・ヴィシネフスカヤ。
 もう間違いなかった。二重になっている奥の扉を開けると、すでに教室は多くの人々で埋まっていた。濃い緑色のパンタロン・スーツを着、胸に大きな金の首飾りをした教授が既に座っていた。私は空いている椅子のひとつに座り、回りを見渡した。男性は三人、女性は二十二人居た。そして私はガリーナ・ヴィシネフスカヤ教授の顔をじっくり眺めた。実にいい顔をしているのに驚くと同時に本当に安心した。というのも今年(1990年)の一月三十一日、東京のアメリカ大使公邸で、出会ったときの彼女の浮腫んだ表情とは余りにも違うからだ。目の前にいるガリーナの表情であったなら、私は何も行くか、行かないかなどと躊躇などしなかった筈だ。
 舞台に立つ人間に限らず、存在感のない人間は駄目なのだ。詩の朗読会でも、詩が良ければ、詩がいいからと良く言われるが、舞台に立っている姿を見て、余りにも存在感が無い詩人たちが多いのに驚く。恐らく言葉をただの道具として扱ってきたからではないのか?そして「聲」が出ない。書いて印刷された作品を読めば、朗読になると思っている輩があまりにも多い。他人の船にはすぐ乗るが、自分で船を漕ぐ詩人が余りにも少なすぎると言うのがここ十年余り、詩の朗読・朗唱に深く関わってきた一人として、偽らざる感想だ。
 
 背後の扉が開いたので、自分自身に戻った。遅れてひとりの女子学生が入ってきた。日本人は私の他に居るのだろうか?見分けがつかなかったが会話から韓国人だと分かった。私は自分が一番最後だろうと勝手に決めていたから、突然、「テンドウ」と呼ばれた時は慌てた。拙い英語で、自分が行なうことを伝えようとしたが、上手くいかない。聲の種類は、テノール? バリトン? と問われても、私は一度も考えた事が無かったから、答えようが無かった。業を煮やしたガリーナが、やってご覧と言う。私も用意してきた拍子木とチョンマイを袋から取り出し、ピアノの前に蹲り跪いた。
 ア・・・ア・・・という聲が回りから上がった。
 かまわず柝の頭を出した。いつもの「即興朗唱」と同じだ。
「阿阿阿阿阿・・・・・・・」という一番細い聲から発し始めた。どのくらい聲を出したであろうか、最後に拍子木をひとつ鳴らして終えると教室中が拍手で埋まった。
 私も念願を果たしたと思った。「日本人だね。」、「私は非常に興味を持っている。」、「私はそれは好きだよ。」   それだけガリーナ・ヴィシネフスカヤに言われれば、もう私にとっては充分である。だからその後に「しかし、貴方は何を欲しているのか」と問われた時、咄嗟に言葉が出てこない。結局、結論は全員のオーデションが終わるまで待たされる事になった。
 後で知ったことだが、生徒はアメリカから二人、南アフリカ、フィンランド、西ドイツ、フランス、日本、各一人、韓国七人の計十四人、それらの学生が最後までガリーナの授業を受けたのだった。
 私は初めから、オーデションを受ければ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤに、「即興朗唱」を聞いてもらえると考えていた。だから目的を果たせばパッシヴに変えようと考えていた。しかし、教授はアクティブのオーデションを受けたのだから、当然、歌を唄うのだろうと思ったようだ。全員を退出させ、専属のピアニストのポリスに音を出させ、私に聲を出せと命じた。正規の音楽教育を受けた事の無い悲しさか、声が裏声(フォルセット)になったまま、どうしてもいつもの地声がまるきり出てこない。緊張の糸がプツリと切れたらしい。緊張すればするほど聲が出るのに、頭の中
が真白くなって何も出てこない。結局、教授は私に歌わせることを諦めた。
 翌朝(7月17日)から午前3時間、午後3時間のマスタークラスの授業(3週間)が始まった。私は授業を一刻たりとも休まなかった。だから誰よりも彼女の聲を聞いた筈だ。学生たちに自ら聲を発し、軆を触らせて、見せる手本が目の前に在った。都合百三十時間余り、彼女の聲を徹低的に聞いた。学ぶべき多くの事は学び取った。

 一週間経ち、ガリーナ教授の気性も分かったので「貴女の写真を撮りたい」と言うと許可してくれた。「もし、良い写真だったら、日本で写真展もやりたい」という希望も許可してくれた。翌日から、買ったばかりのニコン・F810で授業風景を撮り始めた。そして一本目をすぐ現像して彼女に見せた。一枚、彼女の綺麗な足だけの写真があり、仲間達に、怒られるよと言われたが、彼女に見せると、笑いながら、「やったね」と言って片目をつぶった。
 しかし、翌日から彼女は講習が終わるまでパンタロン・スーツで押し通してしまった。
 三週目に入った月曜日の朝、学生たちは遅れて、ガリーナと二人きりだった。
 「貴方は毎日、いつも一番に居るね。来週からイギリスで二週間、授業があるけど一緒に行かないか」と彼女に突然言われた。私にもすでに予定があり、残念ながら無理だったのだが、何故、私に言われたのか分からない。パッシヴの学生で三週間、百三十時間余り、一度も欠かさずにガリーナの授業を聞いた学生は、テンドウさんの他には居ないだろう、と他のクラスで出会った名古屋在住の声楽家谷上節子女史は言う。

 授業の最終日に、今秋から文化庁の海外在外研修員として、モーツアルテイムで引き続きピアノを勉強する米川幸余嬢がクラスを見学に来て、私が好き勝手に授業中に撮影するのを見て、「信じられない」と絶句した。
 今夏、ガリーナのマスタークラスを受講する事について適切な助言を与えてくださった画家の村井正誠氏や、英文学者の壽岳文章先生、人類学者の西江雅之先生、私の聲を「ユニヴァーサル・ヴォイス(宇宙の聲)」と名付けてくださり、またガリーナに推薦状を書いてくださったワシントンD・Cにあるケネディセンターの副館長のジュリアン・プール女史、そして多くの友人たちにも。
 最後に私の願望を叶える機会を与えて下さっただけではなく、「聲」について実に多くの事を教えてくださった私の新しい先生、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ教授に感謝したい。
 本当に有難う御座いました。

     「文学界」(1990年)12月号、掲載より。(部分補筆、訂正アリ)

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2005/05/02

エジプト 五千年の重みの前で

       いま自己を見つめるということ


                    天童 大人(詩人・朗唱家)


           輝く光の渦

 天空の輝きが、ひと塊になり、地上に反映したのかと錯覚を起こすぐらい、眼下の夜景は光り輝いて見える。それがエジプト・カイロ市の初めて見る夜の顔だった。
 20年前(1977年)、空港で1時間余り、警備兵の銃口に曝されながら、機内に待機し、カイロの風を微かに感じた時の趣とは大きく異なっていた。時間は午前1時、(12月3日)、アムステルダム発、KLM533便はゆっくりと降下して行く。この輝く光の渦の底に、何が隠されているのか、全く予想出来なかった。ただ美しい夜景に見とれながら、友人のイヴ・ダナが遅い時間でありながら、約束とおり、出迎えてくれている事を願っていた。
 4年前(1992年)の九月、スイス・ローザンヌ市のギャラリー・アリス・ポーリーで彼の個展の時、ダナと一緒にエジプトを訪れようと約束した事が、今、まさに果たされようとしているのだ。
 スイス政府が年2回、エジプトのカイロ郊外の一軒家(スイス・ハウスと呼ばれている)を借り上げ、3人から5人の若いアーティストを半年間ずつ送り込んで7年目、私の親しい友人・彫刻家、イヴ・ダナが選ばれ、9月1日(本来は6月1日から滞在する権利はあるのだが、6,7,8月の日中の気温が40度を超えるため、仕事のしやすくなる)からカイロに滞在し、制作しているのだった。幾度か電話でやり取りが有って、何とかやりくりしてでも、彼の原点であるエジプトでの制作の現場を訪れ、自分の眼で、確かめておきたい。彼が居なければ、エジプトを訪れる機会など滅多に無いだろうと思えたからだ。それと同時にアフリカの一部であるエジプトで、日本がどのように見えるのか、その視点を得たいと考えたからだ。それは、今、動けるなら動いてみる。何物にも換えがたい、得がたい体験が出来る。それが今後、自分の思考に幅広く、多くの影響を与えることを直識出来たからだ。

          時空を超えて

 そうして昨年12月2日から19日迄、カイロ10日間、ルクソール、アスワン各3日間のエジプト体験を、今、振り返ると、とてつもない五千年余りの時空を超えて存在しているエジプト文明。写真やテレビなどで、見、知っているつもりの観念的世界など、いとも簡単に打ち破られ、宙に放り投げ出されている自分自身を知るのだった。
 なんと日本は、我々は、と言うより自分は、エジプト文明と無縁の場に居たのだと思う。かって確かに、ピラミッドやアブ・シンベル神殿の前で聲を出してみたいと一度は、思い描き考えたこともある。
 しかも、この国の歴史には全く無知である、と言うより、日本人はほとんどエジプトの現代史には関心がないのではないか。国民的英雄のナセル大統領が1961年、或る日突然、ユダヤ人に僅かな身の回りの品物を持たせ、エジプトから追放(現代の出エジプト記)したことなど、このアレキサンドリア生まれのイヴ・ダナを発見し、出会わなかったら、未だ私は知ら無かったに違いない。
恐らく、多くの日本人もこの事実は知らないのではないか。ともかく私はエジプトに対して、余りにも無知だったことに気がつく。

         蜃気楼のように

 あのアガサ・クリスティの小説『ナイル殺人事件』の舞台のアスワンのホテルオールド・カタラクトのレセプションの女性に、フランス語を話す日本人に初めて出会ったと言われた時、私は不思議な気がした。
 ツアーで歩いている日本人たちは良く見かけたが、一人で歩いている日本人にはひとりしか出会わなかった。団体ならエジプトから受ける衝撃は少なくて済むかも知れない。今、日本人は振り返って、自省しなくてはいけない事が沢山在る事に気がつく。五千年の歴史の前でカイロ市内を行き交うあの人々のエネルギーを思い描いて見る時に。
 「世界」は平坦な「面」の連続体ではなく、重層的な時空の相互関連性のなかにこそ屹立する「立体」空間なのだ。
 日本人の反面教師は、ヨーロッパから、エジプトに移動したのであろうか。何故か、昨年末からエジプト関係の書物が目に付き始めた。やっと日本人も絶対に敵わない五千年の重み、エジプト文明を前にして、自国、日本の歴史、文化など、日本人自身の見直しを始めたのであろうか。
 では300年余りの歴史しか無いアメリカ人たちはこの文明の前では、どのように自分たちを考えているのだろうか。独りのアメリカ人女性アーティストの家族を除いては、アメリカ人の姿を見かけなかった事に、初めて気がついた。それはアブ・シンベル神殿の前で聲を出した後、帰途、砂漠の中で自分の眼で初めて見た蜃気楼のように思えるのだが。


  公明新聞(1997年1月21日)、写真一葉と共に掲載(改稿)より。

追記
   この時の旅で、現大統領ムバラクが、人々の為に尽くす政治家では無く、身内、親族に手厚い保護を与えて私腹を肥やすタイプの独裁大統領である事を、現地で不満を持つ若い人々から教えられた。
実際にアスワンでは、ムバラクの弟の巨大な別荘に案内されて、事実で有る事を知った(この時は携帯電話も、テロの危険とかで禁止されていた)。これまでナセル亡き後に偉大な大統領に為れるだろうと風貌から推測し、密かにムバラに期待していたが、何か裏切られた気がした。サダト暗殺時の副大統領ムバラク、その後大統領四選、24年間。(参考の為に、在職期間はナセル14年間、サダト11年間、)
 しかし、この9月、ムバラクが五選を賭けた大統領選挙を前に、昨年秋から、カイロ市内で(集会規制の中)、五選反対の知識人を中心とした市民デモが繰り返されている(新聞報道は非常に少ないが)事は注目に値する。24年間ムバラクに抑えられていたエジプト国民の止むに止まれずの行動なのだろう。運動が烈しくなれば長男を候補者にして、院政をも視野に入れて考えているムバラク。
 エジプト5000年の歴史は、この独裁者を如何に判定するのか。 是非、10月のエジプト大統領選挙に国民がいかに行動するのか、エジプトに於ける民主化とは何か、を刮目して見守りたい。
 フランスの作家、クリスチャン・ジャックの著作、『太陽の王 ラムセス』、『光の石の伝説』、『ピラミッドの暗殺者』等を読むと、権力闘争は古代も現代も、何時の時代も人間の欲望は変わらない事が解る。
 古代、為政者は祭礼を重んじて居たと言う。 現代の為政者ムバラクは、古代の神々や歴代のファラオに対して、祭事を執り行って来たのだろうか?歴代ファラオの無言の力が、現代に奇跡を起こし得るのか?
 あの現存する王家の谷に、古代からの祈祷師の末裔は存在しないのだろうか?
 最近「最も美しいミイラ」が発見された。今、何故?何を伝えたいのか?
 私は今、極東の小さな島国から、エジプト文明5000年の大地の秘めた力を期待しているのだが。(2005年5月5日)

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