ヴァン・ゴッホ展、29年前と何が変わったのか?
これから紹介する文章は、「朝日ジャーナル」 (1977年4月15日号 朝日新聞社刊)に、発表されたものです。28年の時空を経て、ゴッホ展、もしくは美術展はどう変わったのか?何が変わらないのか、を検証する事も、今、低迷が続いている美術界に於いて、意義ある事と考えられるので、敢えて掲載する事にしました。 筆名の 天童 匡人 は誤植。編集部に抗議しましたが、訂正記事は掲載されませんでした。
見ながら考えることの出来ない空間
美術展はこれでいいのか
天童 匡人
初めに読者に尋ねて置きたい事がある。
それは今の日本で、外国から訪れる音楽家が奏でる、どんな素晴しい演奏を聴こうが、有名な画家たちの展覧会をいくら見ようが、詩集や小説、哲学書を買って読書に浸ろうが、それらを亭受する個人の心の活かされる空間は何処に在るのだろうか、と言う事である。
極端な言い方をしてしまえば、日本の3LDKの建物の内に、子供部屋や寝室や台所が在ったとしても、独りの男がものを考える場は何処にも無いと言うことである。
この最も大切なことを見忘れて、いくら『知的生活の方法』などという本が、日本で売られ、読まれようとも、大学教授や特別な職業の人間で無い限り、書斎のような空間さえ持ち得ないのが、ごく当たり前の日本人の住宅事情なのではないだろうか。
自分の心を活かせる空間を、各自が持ち得ない限り、いくら「個」だの「個人」だのと書きたてたところで、本当に言葉だけで、終わってしまい、人は自分の内なる世界に目を向けず、問う事もせず、自分の肉体の外側に在るもののみに関心を持ち、本質的なことには何ひとつ触れることなく、与えられた貴重な時間を、日々、投げ捨てて行くことになるのではないか。
早朝から深夜までの切れ目の無いテレビ放送をはじめとし、ラジオ、新聞、週刊誌、単行本を含む、巨大な大量の情報の媒体によって鈍らされた感受性を備えた多くの人々は、自分自身を当然のものとみなし、個人の利害にはいたく敏感でありながら、公共の空間に於いて、全く無意識者に為りおおせるのは、真の意味での「個」の空間が、人々の心のなかの何処にも無い事を証しだてているに他ならないのではないのか。
人々は過去に一度は「私は、一体誰なのだろうか」と自分自身に、問われた事が在るに違いない。もう一度、読者よ。「私は、一体誰なのだろうか」と問われたい。
企画は全世界を対象に
個人の、見ながら考えるという行為を包み込んだ公共の空間のひとつに、展覧会の会場がある。宣伝の行き届いた会場では、人々の喧噪と埃とで、とても見る気にもならない。
今の日本での展覧会そのものを毒しているのは、企画者側における観客動員数と売り上げ至上主義だと言われている。入場者数の多い企画を立てた人間が、良い企画者として重宝がられているらしい。また展覧会を日本で開催する為に、どの作品を日本人に見せて構成したいのかと言う選定基準が、企画者の考えの中に無いように思われる。
展覧会に多数の観覧者を動員する為には、報道機関、特に新聞社を無視することは出来ない。
昨年1月(1976年)、国立近代美術館で開催された「ドイツ・リアリズム展」を皮切りに、12月の「ヴァン・ゴッホ展」に至る主な展覧会のほとんどが、新聞社主催、共催という形に為っているのをみても明らかである。
新聞で報道してもなお観覧者動員数が、はっきり掴めない展覧会の場合には、招待券を多数発行し、入場者数のはっきりしている場合には、極端に少ない枚数の招待券しか出されていない。たとえ招待券を乱発しても、主催者側は赤字にはならない。印刷物を買うことを好む日本人の習癖を、知悉しているいる彼らは、資料として役立つ事の少ない、必要以上に豪華で、高価なカタログを、入場者は必ず買うことを知っているからだ。そのためにカタログ制作には、ことのほか気を配る。それは今の日本でのあらゆる展覧会の収益金のなかで、カタログの売り上げは無視できぬ金額になっているからだ。また、日本の展覧会では一度も貰った記憶が無いが、昨年8月(1976年)、フランス・アルルでの「マックス・エルンストとサン・ポールとの二人展」では、それぞれ、一枚の紙に印刷された年譜を、無料で入り口で手渡された。これがあれば日本の展覧会会場の場合、入り口付近に掲げられた年譜のパネルの前に、まず人だかりがして、先に進む事の出来ない問題も解決する。見る者の手に資料として、後になって利用する事も出来る。そのくらいのサービスを、主催者は考えても良いのではないか。また会場の問題でか、観覧者動員の相互利益のためにか、デパートでの展覧会も多い。特に昨年10月に行われた「南仏美術館めぐり展」は、作品の数も少なく、写真パネルで誤魔化し、出口に設けられた南仏物産展が主体に思える本末転倒のようなものだった。これは、入場無料であることの方が望ましいのではないか。
このような企画による展覧会を見ていると、利益優先から脱皮し、世界を対象にした企画を考え、産み出せる若い企画者を養成する事が日本での展覧会を充実させる為にも、急務なのではないか。
ヨーロッパ大陸を歩いていると、大学を休学、あるいは、就職した会社を辞めてヨーロッパで何かを探し求めて、生活している若者たちに出会うことが多い。何にも属していない彼らが、己の肉体で確かめえたものを活かし、自由に表現出来る場が、より多くあれば、なにも展覧会の企画に限らず、その内から、今後の日本を活かすであろう、国際性と柔軟性とを併せ持った多数の考え方が出てくると考えられるのだが。
国立西洋美術館や国立近代美術館も、展覧会の貸し会場みたいなことを止めて、夏休みに、世界中の観光客を、そのために日本に招き寄せるだけの魅力ある、独自の企画による展覧会を開催できないものだろうか。例えば、「コンスタン・ブランクーシ彫刻展」や「ニコラ・ド・スタール絵画展」等を企画したらよい。
貧弱だった「ゴッホ展」
昨年五月ニ七日から七月一九日まで、パリのグラン・パレ会場で「ヨーロッパの象徴主義展」が開催された。
十五ヵ国。88人の画家による266点の作品は、北はソ連のレニングラードから、東西ヨーロッパ、北アメリカ、カナダそして南はエジプトのカイロまでのものを含む。
1975年11月のロッテルダムを皮切りに、ブリュッセル、バーデンバーデンを巡回したうえでのフランスでの展覧会であった。これほど纏まり筋の通ったシンボリズムの展覧会を、日本では絶対に見ることが出来ず、ヨーロッパのものは、ヨーロッパの地で見るに限るという、最も当たり前の事を痛感した。同時にヨーロッパのシンボリズムの幅の広がりと日本は全く無縁であり、知らされていないのには驚く。さまざまな言葉が飛び交う会場で、絵を見ている人を椅子に座って見ているのも楽しく、滅多に他者に触れる事も無く、画家たちの語りかけてくる思想を「見る」という自由自在の行為をもって、じっくり味あわせてくれる自分自身の空間が、この展覧会会場の何処にでも在った。
それに比べて、昨年(1976年)10月30日より12月19日まで、東京・国立西洋美術館で開催された「ヴァン・ゴッホ展」は、貧弱な展覧会であった。
ヴァン・ゴッホは私に重要な意味を持つ画家だ。昨年の3月と6月の2回、パリからヴァン・ゴッホとフェルメールとを見る為に自動車で、オランダを回った。オテルローの国立クローレル・ミュレル美術館、アムステルダムの国立ヴァン・ゴッホ美術館、市立美術館、国立美術館、デン・ハーグの王立美術館に行き、夏のイタリア旅行の帰途、サンレミのサン・ポール病院、アルル、オーヴェル・シェル・オワーズ、そしてパリの印象派美術館と、足跡と作品を辿ってきた私にとって、これほど見る者を馬鹿にした企画はない。
私が見たのは最終日の前日の午後三時ごろ。一時間ほど、数珠つなぎになって庭のなかを、幾重にも輪になって待たされた。
「作品の前には立ち止まらずに歩いてください」と、整理員のご親切で、見る者を侮蔑した連呼を、背に浴びせられながらも、何の苦情も言わず、自分の肉体を押されるままに任せながら、群がっている人々を目の当たりに見て、私は怒りがこみ上げてきた。見たい作品のみ見終えると出口に急いだ。会場を出たときも、まだ人々の並んだ列は会場を溢れ、切符の制限までしていた。
入場者が多いなら、夜間の開館も考えられるだろうし、会期を延長する事も考えられる。しかし、この展覧会の為に集められた作品の選択の悪さと少なさとに、怒りを覚える。美術評論家、美術記者を含め、何故か人々はその事に触れないのだ。諦めているのだろうか。「ヴァン・ゴッホ展」と呼ぶ以上、国立ヴァン・ゴッホ美術館に限定せず、まだヴァン・ゴッホの作品の残っている国立クローレル・ミュレル美術館、アムステルダムの市立美術館、或はパリの印象派美術館からも借り出して、名実共に前回1958年の展覧会以上の「ヴァン・ゴッホ展」を開催する事こそ、主催者側の無知なる観覧者に対する唯一の利益の還元に他ならないのだ(前回は作品126点とハーグ市立美術館ほか所蔵の4点とが展示された)。
『ゴッホの手紙(下)』(岩波文庫版)のあとがきに、訳者であり、画家の硲伊之助氏が1958年に日本で開催された「ヴァン・ゴッホ展」開催の経緯を書いているが、そのなかに次のくだりがある。
「・・・・(ハーグの)文部省で決まったことは、東京および大阪でゴッホ展(但し、クローレル・ミュレル美術館所有の大部分の作品)を今から8年後に開くこと。・・・・・その後、パリで開いた文化財企画の日本美術展をオランダへ廻してもらい、八年後に上野で<夜のカフェ>や<アルルのラングロア橋>を見られることになった。オランダ側は実に誠実に約束を守ってくれた・・・」
これを読むと、文化交流の重要な意味を理解できるだろう。今回の「ヴァン・ゴッホ展」の主催者側は、何かオランダ側と見返りの展覧会の約束でも取り交わしているのだろうか。
この展覧会を含め、昨年開催された「ドガ展」、「タマヨ展」、「ハンガリー絵画展」、「カンディンスキー展」、「シャガール展」、「韓国美術五千年展」、「南仏美術館めぐり展」等の後援に、日本の外務省、文化庁の名前が印刷されているが、これらの展覧会の見返りとして、日本文化の展覧会の企画が常に用意されているのだろうか。
パリのプチ・パレ会場に於いて、この4月5日から5月22日まで、「唐招提寺展」が開催されていて、パリ一ヵ所のみの展覧会は終わると聞くが、この企画を実現させる前に、他のヨーロッパ諸国に対して、特別に交渉は為されなかったのだろうか。このような文化事業の機会を利用して、日本政府は、対ヨーロッパ諸国に対しての広報活動を行うべき筈なのに、外務省、文部省、文化庁は互いに仕事の増えるのを嫌って、協力体制をとらないのだとすれば、それこそ目に見えず、数字にも表れないが、重大な国益の損失だと考える。
展覧会を拒否する姿勢
戦後、日本の外交政策を始めとして、様々な分野において、国家間は対等である在ると言う基本的な考え方が、何処にも見当たらないのは誠に残念な事である。同時に、政府を始め商社を含めて、対外広報活動が下手な事は、ヨーロッパで生活した経験を持つものなら、誰もが痛感している事である。
またヨーロッパにある日本大使館の文化部には、貧弱な人材しか配置されておらず、所によっては他の部署と兼任と言う例も珍しく無いのは大きな問題である。
日本国内で画廊を持ち、画商と称しているが、本当のところは大半が売り絵専門であり、本物の画商は日本には少ない。日本の画廊の持ち絵を、ワシントンの国立美術館やロンドンのウォレス美術館、パリのルーブル美術館等が、買ったと言う話もあまり聞かない。
デパートで数多くの絵画展が開催され、それらの作品を買う人々は、どこでそれらの作品に対して納得しているのだろうか。
又展示してある作品を、誰が本物だと鑑定できるのだろうか。絵を買うことの出来ない人々にとって、絵画の売買によって、騙されようが、損しようが、儲けようが関係の無い事である。だからこそ、二年間位、誰もがどんな展覧会を開催しようが、カタログも買わず、作品も買わず、ただ鑑賞するだけに徹してみたら良い。色々な事がくっきりと姿を現し、見えてくるに違いない。その位の強硬手段を用いない限り、利益追求にのみ走る日本の売り絵専門の一部画廊主たちを、目覚めさせる方法が無いように思う。
「個」の空間を家の内にも持ち得ない日本の状況の中では、自分に何が出来うるか、と言う切実な自分自身に対する問いかけしか残されていない。日本人の全てが、改めて自分自身に対して真摯な態度で問いかけ続けない限り、現状を変えていくことは難しい。
先に述べたごとく、若い企画者の養成と共に今後、日本の絵画の世界を突き動かして行くのは、もっと大局的な見地からの発言と行動力とを持った若い人々の活動であり、あらゆる権威に踊らされる事無く仕事が出来る、空間が造られなければならない。
見る者にとっても、批評に頼らず、カタログを買うことなく、自分自身で磨いた感性によって、展覧会そのものを拒否することも大事なことなのではないか。何時までも、あのようなシステムの展覧会が続くとは考えられない。なにもそれは日本に限った事ではなく、1973年秋の石油ショック以来、政治、経済、文化を問わず世界は同時限帯で進んでいることを、一人一人が知る事である。
ジャーナリズムの協力無しには大型展の開けない日本の風土だが、絵画に携わる側はジャーナリズムに溺れては為るまい。溺れぬ道は、画家自身に於ける創作活動の再検討と、見る者に於ける何ものにも侵されることの無い熱情を込めた視線とであり、その熱い交流が密かに継続する限り、例え細い道であっても、絵画を見る喜びは持続できるのだ。最近の展覧会には、1965年の「佐伯祐三展」のような、あの熱気が企画者側にも、観覧者にも失せているのは何故なのだろうか。
昨年、各地で開催された「パウル・クレーとその友だち展」は、宣伝が行き届かぬためか、観覧者が少なかったにもかかわらず、筋道の通った作品の選定と構成であり、このような充実した企画の展覧会が数多く開催されることを希望したい。
今、すべての個人が自分自身に対して問いかけることを忘れてしまっている。
「私は、一体誰なのであろうか」と。
それから全ての第一歩が始まる。諦めることなく続けられなければならない。現実のなかに、自分の意思を刻みつけようという行為が。
(てんどう まさひと・評論家)
追記。後日、この文章に関しては、随筆家の岡部伊都子さんが、連載中の「芸術新潮」のエセイのなかで言及されていますが、現在、この雑誌が見付からないので、今後、出てきたら、改めてご紹介します。(2005年6月23日、正午に記す。)
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