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2005/06/23

ヴァン・ゴッホ展、29年前と何が変わったのか?

 これから紹介する文章は、「朝日ジャーナル」 (1977年4月15日号 朝日新聞社刊)に、発表されたものです。28年の時空を経て、ゴッホ展、もしくは美術展はどう変わったのか?何が変わらないのか、を検証する事も、今、低迷が続いている美術界に於いて、意義ある事と考えられるので、敢えて掲載する事にしました。  筆名の 天童 匡人 は誤植。編集部に抗議しましたが、訂正記事は掲載されませんでした。

  見ながら考えることの出来ない空間

    美術展はこれでいいのか


                     天童 匡人


 初めに読者に尋ねて置きたい事がある。
 それは今の日本で、外国から訪れる音楽家が奏でる、どんな素晴しい演奏を聴こうが、有名な画家たちの展覧会をいくら見ようが、詩集や小説、哲学書を買って読書に浸ろうが、それらを亭受する個人の心の活かされる空間は何処に在るのだろうか、と言う事である。
 極端な言い方をしてしまえば、日本の3LDKの建物の内に、子供部屋や寝室や台所が在ったとしても、独りの男がものを考える場は何処にも無いと言うことである。
 この最も大切なことを見忘れて、いくら『知的生活の方法』などという本が、日本で売られ、読まれようとも、大学教授や特別な職業の人間で無い限り、書斎のような空間さえ持ち得ないのが、ごく当たり前の日本人の住宅事情なのではないだろうか。
 自分の心を活かせる空間を、各自が持ち得ない限り、いくら「個」だの「個人」だのと書きたてたところで、本当に言葉だけで、終わってしまい、人は自分の内なる世界に目を向けず、問う事もせず、自分の肉体の外側に在るもののみに関心を持ち、本質的なことには何ひとつ触れることなく、与えられた貴重な時間を、日々、投げ捨てて行くことになるのではないか。
 早朝から深夜までの切れ目の無いテレビ放送をはじめとし、ラジオ、新聞、週刊誌、単行本を含む、巨大な大量の情報の媒体によって鈍らされた感受性を備えた多くの人々は、自分自身を当然のものとみなし、個人の利害にはいたく敏感でありながら、公共の空間に於いて、全く無意識者に為りおおせるのは、真の意味での「個」の空間が、人々の心のなかの何処にも無い事を証しだてているに他ならないのではないのか。
 人々は過去に一度は「私は、一体誰なのだろうか」と自分自身に、問われた事が在るに違いない。もう一度、読者よ。「私は、一体誰なのだろうか」と問われたい。


       企画は全世界を対象に


 個人の、見ながら考えるという行為を包み込んだ公共の空間のひとつに、展覧会の会場がある。宣伝の行き届いた会場では、人々の喧噪と埃とで、とても見る気にもならない。
 今の日本での展覧会そのものを毒しているのは、企画者側における観客動員数と売り上げ至上主義だと言われている。入場者数の多い企画を立てた人間が、良い企画者として重宝がられているらしい。また展覧会を日本で開催する為に、どの作品を日本人に見せて構成したいのかと言う選定基準が、企画者の考えの中に無いように思われる。
 展覧会に多数の観覧者を動員する為には、報道機関、特に新聞社を無視することは出来ない。
 昨年1月(1976年)、国立近代美術館で開催された「ドイツ・リアリズム展」を皮切りに、12月の「ヴァン・ゴッホ展」に至る主な展覧会のほとんどが、新聞社主催、共催という形に為っているのをみても明らかである。
 新聞で報道してもなお観覧者動員数が、はっきり掴めない展覧会の場合には、招待券を多数発行し、入場者数のはっきりしている場合には、極端に少ない枚数の招待券しか出されていない。たとえ招待券を乱発しても、主催者側は赤字にはならない。印刷物を買うことを好む日本人の習癖を、知悉しているいる彼らは、資料として役立つ事の少ない、必要以上に豪華で、高価なカタログを、入場者は必ず買うことを知っているからだ。そのためにカタログ制作には、ことのほか気を配る。それは今の日本でのあらゆる展覧会の収益金のなかで、カタログの売り上げは無視できぬ金額になっているからだ。また、日本の展覧会では一度も貰った記憶が無いが、昨年8月(1976年)、フランス・アルルでの「マックス・エルンストとサン・ポールとの二人展」では、それぞれ、一枚の紙に印刷された年譜を、無料で入り口で手渡された。これがあれば日本の展覧会会場の場合、入り口付近に掲げられた年譜のパネルの前に、まず人だかりがして、先に進む事の出来ない問題も解決する。見る者の手に資料として、後になって利用する事も出来る。そのくらいのサービスを、主催者は考えても良いのではないか。また会場の問題でか、観覧者動員の相互利益のためにか、デパートでの展覧会も多い。特に昨年10月に行われた「南仏美術館めぐり展」は、作品の数も少なく、写真パネルで誤魔化し、出口に設けられた南仏物産展が主体に思える本末転倒のようなものだった。これは、入場無料であることの方が望ましいのではないか。
 このような企画による展覧会を見ていると、利益優先から脱皮し、世界を対象にした企画を考え、産み出せる若い企画者を養成する事が日本での展覧会を充実させる為にも、急務なのではないか。
 ヨーロッパ大陸を歩いていると、大学を休学、あるいは、就職した会社を辞めてヨーロッパで何かを探し求めて、生活している若者たちに出会うことが多い。何にも属していない彼らが、己の肉体で確かめえたものを活かし、自由に表現出来る場が、より多くあれば、なにも展覧会の企画に限らず、その内から、今後の日本を活かすであろう、国際性と柔軟性とを併せ持った多数の考え方が出てくると考えられるのだが。
 国立西洋美術館や国立近代美術館も、展覧会の貸し会場みたいなことを止めて、夏休みに、世界中の観光客を、そのために日本に招き寄せるだけの魅力ある、独自の企画による展覧会を開催できないものだろうか。例えば、「コンスタン・ブランクーシ彫刻展」や「ニコラ・ド・スタール絵画展」等を企画したらよい。


       貧弱だった「ゴッホ展」


 昨年五月ニ七日から七月一九日まで、パリのグラン・パレ会場で「ヨーロッパの象徴主義展」が開催された。
十五ヵ国。88人の画家による266点の作品は、北はソ連のレニングラードから、東西ヨーロッパ、北アメリカ、カナダそして南はエジプトのカイロまでのものを含む。
 1975年11月のロッテルダムを皮切りに、ブリュッセル、バーデンバーデンを巡回したうえでのフランスでの展覧会であった。これほど纏まり筋の通ったシンボリズムの展覧会を、日本では絶対に見ることが出来ず、ヨーロッパのものは、ヨーロッパの地で見るに限るという、最も当たり前の事を痛感した。同時にヨーロッパのシンボリズムの幅の広がりと日本は全く無縁であり、知らされていないのには驚く。さまざまな言葉が飛び交う会場で、絵を見ている人を椅子に座って見ているのも楽しく、滅多に他者に触れる事も無く、画家たちの語りかけてくる思想を「見る」という自由自在の行為をもって、じっくり味あわせてくれる自分自身の空間が、この展覧会会場の何処にでも在った。
 それに比べて、昨年(1976年)10月30日より12月19日まで、東京・国立西洋美術館で開催された「ヴァン・ゴッホ展」は、貧弱な展覧会であった。
 ヴァン・ゴッホは私に重要な意味を持つ画家だ。昨年の3月と6月の2回、パリからヴァン・ゴッホとフェルメールとを見る為に自動車で、オランダを回った。オテルローの国立クローレル・ミュレル美術館、アムステルダムの国立ヴァン・ゴッホ美術館、市立美術館、国立美術館、デン・ハーグの王立美術館に行き、夏のイタリア旅行の帰途、サンレミのサン・ポール病院、アルル、オーヴェル・シェル・オワーズ、そしてパリの印象派美術館と、足跡と作品を辿ってきた私にとって、これほど見る者を馬鹿にした企画はない。
 私が見たのは最終日の前日の午後三時ごろ。一時間ほど、数珠つなぎになって庭のなかを、幾重にも輪になって待たされた。
 「作品の前には立ち止まらずに歩いてください」と、整理員のご親切で、見る者を侮蔑した連呼を、背に浴びせられながらも、何の苦情も言わず、自分の肉体を押されるままに任せながら、群がっている人々を目の当たりに見て、私は怒りがこみ上げてきた。見たい作品のみ見終えると出口に急いだ。会場を出たときも、まだ人々の並んだ列は会場を溢れ、切符の制限までしていた。
 入場者が多いなら、夜間の開館も考えられるだろうし、会期を延長する事も考えられる。しかし、この展覧会の為に集められた作品の選択の悪さと少なさとに、怒りを覚える。美術評論家、美術記者を含め、何故か人々はその事に触れないのだ。諦めているのだろうか。「ヴァン・ゴッホ展」と呼ぶ以上、国立ヴァン・ゴッホ美術館に限定せず、まだヴァン・ゴッホの作品の残っている国立クローレル・ミュレル美術館、アムステルダムの市立美術館、或はパリの印象派美術館からも借り出して、名実共に前回1958年の展覧会以上の「ヴァン・ゴッホ展」を開催する事こそ、主催者側の無知なる観覧者に対する唯一の利益の還元に他ならないのだ(前回は作品126点とハーグ市立美術館ほか所蔵の4点とが展示された)。
 『ゴッホの手紙(下)』(岩波文庫版)のあとがきに、訳者であり、画家の硲伊之助氏が1958年に日本で開催された「ヴァン・ゴッホ展」開催の経緯を書いているが、そのなかに次のくだりがある。
 「・・・・(ハーグの)文部省で決まったことは、東京および大阪でゴッホ展(但し、クローレル・ミュレル美術館所有の大部分の作品)を今から8年後に開くこと。・・・・・その後、パリで開いた文化財企画の日本美術展をオランダへ廻してもらい、八年後に上野で<夜のカフェ>や<アルルのラングロア橋>を見られることになった。オランダ側は実に誠実に約束を守ってくれた・・・」
 これを読むと、文化交流の重要な意味を理解できるだろう。今回の「ヴァン・ゴッホ展」の主催者側は、何かオランダ側と見返りの展覧会の約束でも取り交わしているのだろうか。
 この展覧会を含め、昨年開催された「ドガ展」、「タマヨ展」、「ハンガリー絵画展」、「カンディンスキー展」、「シャガール展」、「韓国美術五千年展」、「南仏美術館めぐり展」等の後援に、日本の外務省、文化庁の名前が印刷されているが、これらの展覧会の見返りとして、日本文化の展覧会の企画が常に用意されているのだろうか。
パリのプチ・パレ会場に於いて、この4月5日から5月22日まで、「唐招提寺展」が開催されていて、パリ一ヵ所のみの展覧会は終わると聞くが、この企画を実現させる前に、他のヨーロッパ諸国に対して、特別に交渉は為されなかったのだろうか。このような文化事業の機会を利用して、日本政府は、対ヨーロッパ諸国に対しての広報活動を行うべき筈なのに、外務省、文部省、文化庁は互いに仕事の増えるのを嫌って、協力体制をとらないのだとすれば、それこそ目に見えず、数字にも表れないが、重大な国益の損失だと考える。


      展覧会を拒否する姿勢


 戦後、日本の外交政策を始めとして、様々な分野において、国家間は対等である在ると言う基本的な考え方が、何処にも見当たらないのは誠に残念な事である。同時に、政府を始め商社を含めて、対外広報活動が下手な事は、ヨーロッパで生活した経験を持つものなら、誰もが痛感している事である。
 またヨーロッパにある日本大使館の文化部には、貧弱な人材しか配置されておらず、所によっては他の部署と兼任と言う例も珍しく無いのは大きな問題である。
 日本国内で画廊を持ち、画商と称しているが、本当のところは大半が売り絵専門であり、本物の画商は日本には少ない。日本の画廊の持ち絵を、ワシントンの国立美術館やロンドンのウォレス美術館、パリのルーブル美術館等が、買ったと言う話もあまり聞かない。
 デパートで数多くの絵画展が開催され、それらの作品を買う人々は、どこでそれらの作品に対して納得しているのだろうか。
 又展示してある作品を、誰が本物だと鑑定できるのだろうか。絵を買うことの出来ない人々にとって、絵画の売買によって、騙されようが、損しようが、儲けようが関係の無い事である。だからこそ、二年間位、誰もがどんな展覧会を開催しようが、カタログも買わず、作品も買わず、ただ鑑賞するだけに徹してみたら良い。色々な事がくっきりと姿を現し、見えてくるに違いない。その位の強硬手段を用いない限り、利益追求にのみ走る日本の売り絵専門の一部画廊主たちを、目覚めさせる方法が無いように思う。
 「個」の空間を家の内にも持ち得ない日本の状況の中では、自分に何が出来うるか、と言う切実な自分自身に対する問いかけしか残されていない。日本人の全てが、改めて自分自身に対して真摯な態度で問いかけ続けない限り、現状を変えていくことは難しい。
 先に述べたごとく、若い企画者の養成と共に今後、日本の絵画の世界を突き動かして行くのは、もっと大局的な見地からの発言と行動力とを持った若い人々の活動であり、あらゆる権威に踊らされる事無く仕事が出来る、空間が造られなければならない。
 見る者にとっても、批評に頼らず、カタログを買うことなく、自分自身で磨いた感性によって、展覧会そのものを拒否することも大事なことなのではないか。何時までも、あのようなシステムの展覧会が続くとは考えられない。なにもそれは日本に限った事ではなく、1973年秋の石油ショック以来、政治、経済、文化を問わず世界は同時限帯で進んでいることを、一人一人が知る事である。
 ジャーナリズムの協力無しには大型展の開けない日本の風土だが、絵画に携わる側はジャーナリズムに溺れては為るまい。溺れぬ道は、画家自身に於ける創作活動の再検討と、見る者に於ける何ものにも侵されることの無い熱情を込めた視線とであり、その熱い交流が密かに継続する限り、例え細い道であっても、絵画を見る喜びは持続できるのだ。最近の展覧会には、1965年の「佐伯祐三展」のような、あの熱気が企画者側にも、観覧者にも失せているのは何故なのだろうか。
 昨年、各地で開催された「パウル・クレーとその友だち展」は、宣伝が行き届かぬためか、観覧者が少なかったにもかかわらず、筋道の通った作品の選定と構成であり、このような充実した企画の展覧会が数多く開催されることを希望したい。
 今、すべての個人が自分自身に対して問いかけることを忘れてしまっている。
 「私は、一体誰なのであろうか」と。
 それから全ての第一歩が始まる。諦めることなく続けられなければならない。現実のなかに、自分の意思を刻みつけようという行為が。


                   (てんどう まさひと・評論家) 


追記。後日、この文章に関しては、随筆家の岡部伊都子さんが、連載中の「芸術新潮」のエセイのなかで言及されていますが、現在、この雑誌が見付からないので、今後、出てきたら、改めてご紹介します。(2005年6月23日、正午に記す。)

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2005/06/07

森 茉莉さんのこと。

     作家 森 茉莉さんの初代サポーターが私?


                        天童 大人

 去る5月下旬、森茉莉文学館の白川宗道館長から突然、電話が有り、<森茉莉忌>は6月6日なのだが、今年は、来る6月11日正午過ぎから下北沢の、茉莉さん縁の店、邪宗門 (℡03-3410-7858)で、<森茉莉忌>を開催する、ので森茉莉さんの初代サポーターとして、何か話してもらいたい、との電話を受けた。
 追って6月2日、メールが届き、初代茉莉さんサポーター天童氏×萩原葉子先生にもインフォームしてあると記されてある。
 日時:6月11日(12時)下北沢駅:メイン改札口近く、2階になったところ。(時間厳守)。参加申し込み&仔細は白川宗道携帯(090-9975-7855) 参加費3000円。関心の或る方は是非、白川氏に連絡し、ご参加下さい。


 かってある会合で詩人の白石かずこさんと一緒に居た白川氏と立ち話で、彼が森茉莉さんのところに出入りしていた事を知り、時期を確かめたところ、どうも私がヨーロッパに出発した1972年8月以降と言う事が分かった。

 私が森茉莉さんの処に、臆することなく、突然、電話をし、連れ出す為に、お住まいの倉運荘を訪れたのは、1971年、(月日は分からないが、うす寒かった記憶がある。) 裸電球の下、爪をガーゼで、廊下に在った洗面所で洗い、磨く間、戸を開けられたままの部屋の前で、立ち尽くしていた。ふと足元に眼をやると蜜柑箱の中に埃にまみれた本が積み重なって在り、一番上の埃が積もっている本を手に取り、開いてみると吉行淳之介さんの茉莉さん宛への署名入り、献呈本だった。もっと本は積み重ねて在るのだが裸電球の薄明かりの下で、無断で人の本を見ている余裕は無かった。右手にガーゼを持った茉莉さんが戻って来た。茉莉さんが部屋に入り、暫らく経つとこれを持って頂戴と渡された。新聞紙に包まれた瓶で、喘息の煎じ薬が入って居るからと、少女のような声で言われたので、タクシーに乗っても、生暖かい瓶を、私は両腕に抱えたままで居た。
 タクシーの中で何を話したか、もう覚えていない。茉莉さんの作品はほとんど読んでいて、最初の本で、翻訳本の、『マドモアゼル・ルウルウ』、も持っている、と言うと、驚いた表情で、貴方で二人目、と言って、聞いた事のある人の名前を言われたが、それが誰だったのか思い出せない。その後、その希觀本『マドモアゼル・ルウルウ』は、高名なフランス文学者に、お貸ししたままになっている。

 タクシーが広尾の屋敷の玄関の前に着き、数段の石段を片手に薬瓶、片手で茉莉さんを抱えるようにして上り、玄関を開けた。
 目ざとく、茉莉さんを見つけた客人たちが聲を上げた。あっという間に居間の深い椅子に座った茉莉さんの周りを客人たちが囲んだ。岡田真澄、芳村真理、露木茂(現フジテレビアナウンサー部長)氏等が、フランス人の問いに答えている茉莉さんの話を聞いている。遠くに島津貴子夫妻の顔も在った。

 毎月、自宅でパーティーは開かれていたが、今回は特にフランス人が大勢集まるパーティーを開くので、誰か特別ゲストに相応しい人は居ないかと、私が手伝って居たギャラリーの社長のF氏が社員に尋ねるので、私が、未知の作家で、作品をほとんど読んでいた森茉莉さんの名前を何気なく思いつくままに出した。結果、私の提案が採用された。(と言う事は、私はこの時、広尾に在ったギャラリーSを手伝って居た訳だ。)提案した私が交渉役を全て任された。

 パーティーは幻の作家・森茉莉を中心にして動き始めていた。
当然、フランス人はフランス語で話しかける。茉莉さんも最初は拙いながらもフランス語で答える。そんな時間が少し続くと茉莉さんの話すフランス語がどんどん流暢に為っていくことが傍に居て判る。
かって茉莉さんはパリに住んでいたから、色々な場所や店の事、路上の娼婦等をフランス人相手に確かめている。その頃、私はヨーロッパに行く前だから、茉莉さんの話は、はっきり道筋が見えてこなかった。(今なら、良く分かるのだが。)それにしても招待された数多くのフランス人たちは、この老婦人がfemme de letters(女性文学者)で、高名な文学者森鴎外の娘だと言う事に、深い関心を持った様だ。

 後日、茉莉さんは横浜から刊行されていたリトル・マガジンに、エセイとして私のこととこのパーティーの事を書き記してくれた。(残念ながら、何処から、何時、刊行された雑誌か不明なのだ。).

私が茉莉さんに、三島由紀夫の自裁する2週間前の1970年11月11日、彼の自宅で、会見した時、三島由紀夫の驚愕の表情の事を、話したのは、何回かお逢いしてからの事だった。
 その時の事を、その後出会った評論家・福田恆存、作家・藤島泰輔、作家・坂上弘氏等に尋ねてみた事もお話した。岡田真澄氏に紹介された福田氏は「貴方はホモですか?」。「いいえ、違います」。「それは可笑しいですね」と笑いながら言われた。藤島氏は「そんな事は、絶対に有り得ない。彼が青ざめるなんて」。坂上氏は「蓮田善明氏と見間違ったのではありませんか」と。
 「それはとても大事な事だから、書き残して置きなさい。」と茉莉さんは静かに言った。
 この時は、貴方に白身のお寿司を御馳走してなかったわね、と言って、住まい近くの行きつけの寿し屋に入り、すっと座敷に上がり、座るとすぐ話し始めた。そして飯台の上に白身の平目が三巻か五巻、置かれたのを前にしての三島に関しての会話だった。

 こうなったら茉莉さんの活字になった作品を、全て探し出して読んでみよう。特に文藝雑誌、「文藝」に発表した原稿用紙110枚位の作品は、茉莉さんの手元にも無く、茉莉さんも困っているので、彼女から題名を聞いて、(もう今では題名も忘れてしまったが)是非、探し出して茉莉さんに、渡してあげようと思った。
 全国の古書店で雑誌、「文藝」を探す事に、一時期専念した。
 『甘い蜜の部屋』にはどうしても欠かせない作品だと言う。新潮社のK編集者も見付からないと言っていると言う。このKと言う編集者が真剣に探しているとは、とても私には思えなかった。それからどれ位の日時が経ったであろうか、遂に、都内の或る古書店のうず高く積まれた雑誌の山から、作品が掲載されている「文藝」を探し出した。
読み始めて、この作品で限定版の本を造りたいと思わせるほど、気に入った。
 早速、茉莉さんに、雑誌が、見付かった事、読んで作品が気に入ったので、限定版の本にしたいと打ち明けた。茉莉さんは、貴方が気に入ったのなら、貴方なら限定本を造っても良いわ、と言って承諾してくれた。

 こうして書き継いで行きながら、時間のずれがどうも上手く合わないのだ。
 記憶などあやふやなものだと痛感する。
 三島由紀夫が亡くなったのが、忘れもしない1970年11月25日、私が初めてヨーロッパに向けて密かに旅立ったのは1972年8月。詩人の吉田一穂に、詩人・小山一郎氏の仲立ちで会ったのが1972年3月。一穂と会って、話をしながら森茉莉の事を考えていたのをはっきり覚えている。その後に6月3日の詩人の鷲巣繁男氏の出版記念会に小山氏と共に出席している。茉莉さんとはどの位、会い話したのだろうか?1974年4月1日に帰国した後、スペインのサンタンデールに住む一年後輩のYが帰国した時、邪宗門で茉莉さんに紹介している事を思い出した。とすれば1976年秋に、二度目のヨーロッパへ行く迄、茉莉さんと交流が在った事になる。

森茉莉さんに言われて、三島由紀夫との会見の時の事を、詩作品にしたのは、1981年3月、詩誌「北十字」6号に、詩作品「感喜」として発表、その後、第一詩集『玄象の世界』(永井出版企画刊、1981年、1982年再版)の中に、詩作品「ⅩⅩⅢ」として収録した。今、読んでも、あの日の昼下がり、三島邸の居間での、三島由紀夫の姿を垣間見る事が出来るであろう。
 しかし、残念ながら文章として、発表の機会は未だ与えられては居ない。未だ書くべき時では、ないのかも知れない。
 
 森茉莉のイノサンスとは何だろうか?茉莉さんと話していると、かって哲学者 土井虎賀壽教授と話していた時と同じような得がたい感じがしていた。
 ダリが若いとき、魚屋に入って、文房具を買おうとして、欲しいものが無くて激怒した逸話を何故か訳した事から思い出す。(『ロルカ・ダリ』(アントニーナ・ドロリゴ著 山内政子・天童匡史・小島素子訳 六興出版刊、1986年)。
 蒼運荘から代沢ハウスに移転したのが1973年、私は日本に居なかったから、何故かは、何も知らない。
1974年4月、ヨーロッパから帰国後に、茉莉さんに会ったとはっきり言えるのは、文化学院の1年後輩で、スペインの・サンタンデールに住んで居る山内政子が帰国した時、下北沢の邪宗門で、茉莉さんを紹介したからだ。
 その後、茉莉さんとの交流が如何なつたか、はっきり覚えては居ない。9月から丹波山中で、しころ屋根の修復に従事したからだ。山中で竹を切ったり、木刀で石を切ったりしていた日々を送っていたからだ。
 文学の世界とはかけ離れた肉体を自然に鍛える事を行っていた。最初、20キロの細い丸太を右肩に乗せても僅かしか歩けなかったが、半年後100キロの丸太を右肩に乗せて、山から歩いて麓まで下りてこれるように、私の右肩は為っていた。それは後に、字家として字作品を書くときに、追従を許さぬ筆力の強さとなって、活かされている。 

これは去る6月11日に開催された<森茉莉忌>で、白川館長から依頼された森茉莉さんとの事を話す為に、思い出しながら毎日、書き続けてきたものです。

 白川館長、ご苦労様でした。また森茉莉さんの文章をまた読み直してみたくなりました。有難う
 森茉莉に関心の在る若い人が増えてきている事は心強いですね。昨今のパソコンで打つたものと手書きの文章の違いを感じる事の出来る人、<個>が在るものを捜している、<個>がある人が増えていると言う事でしょうか、ね。良い傾向ですね。(6月12日記す)
 作品が読みたくなって、『森茉莉全集 全8巻』を捜したら、結構、古書店では良い値段なので驚いた。8冊の内、絶版本が2冊有るらしい事が調べてみて分かった。2003年には復刻版も出たが、すぐ完売したらしい。そこでyahooのオークションで検索したら、1組有り、入札したら、上手い具合に落札出来た。万歳!届いたら、一気に読破するぞ。(13日夜、記す。)

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2005/06/01

砂澤ビッキ 死す

        彫刻家・砂澤ビッキ 死す
  

                        天童 大人
                        (詩人・字家)

 去る一月二十一日(1989年)からニ月五日まで、神奈川県民ホール・ギャラリーに於いて、上野憲男・砂澤ビッキ・吹田文明の三作家による「現代作家シリーズ’89」が行われた。
 その展覧会の(文字どうり遺作展となった)自分の会場を自らの手で飾り付けをするべく、命を賭けて彫刻家砂澤ビッキは札幌の入院先の病院から、付き添いの女医と共に二十日空路上京、陣頭指揮で作品を配置し、二十一日の初日には短い時間ながら会場に姿を現し、挨拶を行い、二十二日帰礼し、そして三日後の一月二十五日、札幌・愛育病院にて息を止めた。享年五十七歳。昨今、聞くこと久しい、苛烈な作家魂と言えるだろう。
 現代彫刻界の木の造形分野で、植木茂(一九八四年・七一歳で死去)と砂澤ビッキとが木の塊りから直彫りし、作品を造りだす数少ない彫刻家であったと思う。
 一九五○年、モダン・アート協会の創立会員であった植木茂が一九五四年に退会した翌年、砂澤ビッキがモダン・アート協会に出品し、一九五八年に新人賞を受賞、一九六○年に会友。ニ年後三十一歳で会員。そして一年後の一九六四年に退会。約三十年間、砂澤ビッキは創作活動を行った事に為る。
 今はやりの大学教師の肩書きを持ち、研究室で学生相手に木片を捏ね繰り回している軟な、決して樹木を担ぐことも出来ない貧相な肉体の似非彫刻家たちとは対極のグローブのような大きな肉厚の力強い手で、木を削るのを見るだけでも、自然と向かい合っている爽快感を覚える。
 自然の大地を熟知しない者が木を扱うなんて、樹木の精霊に歯向かうようなものだが、そんなことも全く意に解さない時代の風潮であろうか。
 しかし、砂澤ビッキには、確実に、彼独自の(アイヌ民族特有の?)樹木信仰を内に持っていた。
 「日本人の持つ自然観には非常にまやかしが在ると思う。」と言い切る事が出来たこの彫刻家は、「自然の中に芸術があって、芸術の中に自然が在る」と言う制作姿勢を、崩す事無く維持しながら仕事を続けていた。
 札幌・芸術の森・野外美術館に在る作品「四つの風」(一九八六年作)は砂澤ビッキの作品のなかで最も大きく、代表的な作品となるであろう。幌延町の問寒別にある北大演習林に樹齢七百年余りの七メートル五十の赤エゾ松四本で制作された。地上五・五メートル、地下に一・五メートル埋めて在るという。この作品を謳った詩作品(砂澤ビッキには詩集『青い砂丘にて』一九七六年・ビッキ・アーツ刊も在る)が会場に展示された。
 
 「風よ お前は四頭四脚の 獣 お前は凶暴だけに 人間たちは お前の 中間のひとときを愛する。 それを四季という。願わくば俺に 最も 激しい風を全身に そして眼にふきつけてくれ、風よ お前は 四頭四脚なのだから 四脚の素敵な ズボンを贈りたいと思っている。 そうして 俺を一度抱いて くれぬか。 一九八八年秋 ビッキ」

この「四つの風」のことが最近出版された『イーグル・ウーマン』(リン・アンドルウーズ著)に、カナダ在住のメデシン・ウーメンことアグヌスの口から発せられたので驚いた。もしかしたら、ビッキがカナダ滞在中に、メデシン・マンに出会ったか、或はアイヌ民族の秘めた伝承にあるか、興味が湧いてきた。
 砂澤ビッキが亡くなった事によって、日本の直彫りの伝統が絶えるのだろうか、会場のここ数年間の作品群を見ながら考えてしまう。
 現在の彫刻家たちには、樹木に対するビッキほどの造詣の深さも感じられない。彼の作品は樹木の持つ力を見事に導き出していた。これは天性の素質なのかも知れない。彼の残した作品について語るには、樹齢ほどの時間のスタンスが必要なのだ。何も性急になる必要は無い。
 ビッキにもし関心があれば、すぐ札幌に飛んであの「四つの風」を見に行く事だ。 
 そんな熱情も無い者が、やたらに言葉を巧みに操ってみても、何も産まれては来ない。
 写真家野堀成美氏からの私信に、「心の中に生かし得る人の中にのみ、死せる人は命を永らえるのでしょう。」と記されてあった。
 砂澤ビッキが成し遂げられなかった仕事を、何処の誰が引き継いで行くのか、楽しみな事だ。


      月刊 「いけ花龍生」(1989年6月号 写真4葉と共に掲載)より、訂正・補筆。                  

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