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2005/08/25

『ロルカ・ダリ 裏切られた友情』の訳者後記より。

  『ロルカ・ダリー 裏切られた友情ー』 アントニーナ・ロドリーゴ著

                    山内政子・天童匡史・小島素子訳


 少しだけ、私とスペインとの関り合いを書き記しておきたいと思います。
 今から十六年前(1970年)、画廊で仕事をしていた時、「サルヴァドール・ダリのフローラ・ダリーネ版画」展のための案内状に、「魔法の杖を持った狩人ーサルヴァドール・ダリ」という文章を書いたことを、二年前から本書に携わるようになって想い出しました。
 《「新しい事」は自分が持っている全てのものを捨て去った後に初めて可能なことであり、どれほど徹底して自分自身を捨てることが出来たかに全てがかかっている。サルヴァドール・ダリ、二十三歳のときの彼の決断こそ「ダリ自身」への出発の源泉であったことを今の私にはいたくはっきり理解出来るのだ。
 あの時から四十年余り、我々が生きている不条理の世界の秘密を、鋭い嗅覚の猟犬を持った狩人のように、ダリは執拗に描き続けながらも、常にダリ自身でありえたのだ。(中略)
 しかし、サルヴァドール・ダリ!これからは、「西洋」が自分自身を問うときなのだ。
 そのために私は出発する。》
 この文章を発表してから一年後、シベリア鉄道、地中海航路を経てマルセーユと、秘かに日本を出発し、一ヵ月後にスペインに辿り着いたことを、昨日のことのように想い出します。
 私が「西洋」の地に第一歩を印したのはギリシアのピレウスでした。アクロポリスや古代劇場跡で、何かにつき動かされるように「聲ヲ発シ」ました。今、敢えて振り返って考えて見ますと、無意識に書いたり、行ったりしていたことが、実は一つの表現形式を求めて試行錯誤を繰り返していたことに気がつきます。そしてスペイン北部の深山で、毎日、三千メートルの山並を見ながら、ただ「私は誰なのか?」と自問しながら、廃屋に住みつき、ロバの背にパンを乗せて、村の中を売り歩いたこと等も、今となっては得がたい経験です。耳で覚えたスペイン語が、使えるようになっても、山に登っては「聲」を出していました。そして、ヨーロッパ各地の聖なる地や、古代劇場跡の「場ノ力」によって、自分が「発スル聲」に耳を澄ませて来ました。
 紀元前五世紀頃には、すでにギリシアにはホメイリダイ、ラプソディーと呼ばれ、『イーリアス』や『オデュッセイア』の朗唱を行う集団がいたこと、そして日本でも北で「朗唱」を行う詩人たちを一九八〇年に知った時、私の体内で、ギリシアと北ノ大地とが感応し合いました。一九八四年五月、京都の英文学者、壽岳文章先生のお宅でひと声だけ「聲」を発しました。戦前、肉声で聴かれたというシャリアピンの声と私の声と比較して貴重なアドバイスをいただきました。そして、空海が「聲ニ實相アリ」と残していることを教えて下さいました。シアトル・ニューヨーク朗唱公演を終えて帰国した直後でしたから、より強く「聲」にこだわっている自分自身に気がつきました。そしてガルシア・ロルカです。彼自身が本書で語っているように、声に出していた作品を出版するのは「決定的に死んでしまう」ことを意味しているということを、今の私は「即興朗唱」という新しいジャンルを興して挑んでいるからでしょうか、ロルカの言葉の意味することが本当に心に痛いほど良く分かります。ロルカは私にとって今まで触れることが少なかった詩人のひとりです。他人の詩を声にのせることをほとんどしませんので、ロルカの仕事がどのようなものか、知りませんでしたが、本書に関って、ロルカの詩人としての奥深い才能に、遅ればせながら目を開かされました。アナ・マリア・ダリがしわがれ声と呼んでいるロルカの声を探して、「聲ノ質」や「聲ノ力」を知りたくなりました。でも、これは、もっと早くロルカを知っても、遅く知っても意味がないという私自身のある僥倖の一瞬です。
 また、本書によって私は再びダリと巡り会い、ロルカとダリとの関わりを改めて教えられました。ブニュエルの不可解な変身にも興味を持ちました。著者を始め、様々な出会いが織りなして出来上がった本書『ロルカ・ダリー裏切られた友情ー』が、また新たに豊潤な出会いの一瞬を読者にもたらすことを期待してやみません。

                        (天童 匡史)

 これはアントニーナ・ロドリーゴ著『ロルカ・ダリー裏切られた友情ー』(山内政子・天童匡史・小島素子訳 六興出版刊 1983年3月 初版 1988年7月 2刷 刊行 現在は絶版)の訳者後記として発表したものです。
 

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2005/08/12

骨董・灰陶布目印文小壷(中国・戦国時代)

   骨董・灰陶布目印文小壷(中国・戦国時代)


                  天童 大人・三童人
                   (字家・朗唱家)

 李朝の肉厚の黒茶碗、古鏡と続いて出てきたのが写真(残念ながら掲載出来ず、悪しからず)の小壷だ。
「戦国時代ですよ、今から二千三百年前」
 ご主人の後藤氏が発した歳月の重さにまず感心した。「どうして戦国時代と分かるんですか」、「この巴印が特徴なのですよ」
 私は指差された部分を良く見ると、紛れもなく、「巴」、「スワスチカ」で生命のシンボルである。胸騒ぎがしてきた。触ってもいいですかと断って、触れてみた。ひんやりとした土の感触が、時代の深さを伝えていると感じた瞬間、手の内のこの小さな器が、ぐんぐん大きくなり、四、五○センチ位の大きさにはっきり見えた。私は値をご主人に尋ねた。

 ここは京橋にある古美術店・後藤真趣堂だ。
 日本橋に出ると必ず丸善のM氏に会い、守尾瑞芝堂で文房四宝を見、以前に大学の後輩の女性が働いていたこともあるこの店で、後藤さんの話を聞きながら、様々な珍品を見せて頂くのが、私の密かな楽しみの一つでもある。
 御主人が奥から戻ってきて、纏めて出てきた物のひとつだから、値は少しだけ乗せてくれれば良いと言うので、買う事に決めた。
 直ちに、身近の友人たちに、大きく見えたこの小さな器の事を話した。そのひとりである西新橋のギャラリーいそがやの長尾喜和子女史は、早速、『目の眼』一九九三年十一月号掲載の長田早苗氏の「脱塩処理の手法」を読んで見たらと貸してくれた。
 数日後、再び店を訪れて「酒杯」として使ってみたいと相談すると、以前の持ち主も一度だけ酒杯として用いた事があるという。
 「壊れたら壊れた時ですよ」と御主人は言って直ちに少し縁の欠けた小ぶりの方の器を水から煮てくれた。待つこと二十分余り。
 「大丈夫ですよ」と言って、熱湯を含み、色濃く熱っぽってりの器を出して来てくれた。土の匂いがする。そして数日して、受け取りに立ち寄ってみたら、御主人は留守だった。

 約束の日、まず丸善にM氏を訪ねた。
 彼は貰い物だけど、気にいるだろうと、丸形の「Celtic Horses(ケルトの馬たち)」と名付けられた文鎮をくれた。奇しくも三頭の馬の絵柄の外側には巴印が連なって刻み込まれていたのだ。戦国時代の特徴の印はケルト文化の印でもあるのだ。生産地が特定できないとすれば、ケルトの人々が中国大陸にまで足を伸ばし、産み出した証しに巴印を残して消えたとも想像出来得るのだ。私の夢が一瞬にして大きく膨らんだ。
 そして、この器を大切に使い始めると土の泥臭い匂いが消え、次第に芳ばしい香りを発し始めた。
 古の人々はこの小さな器をどのように用いたのであろうか。
 ともあれ、今、永い眠りから確かに甦ったのだ。


月刊『目の眼』3月号 (1994年3月1日発売)に写真一葉と共に掲載する。

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2005/08/03

詩人 黄 瀛(こう えい) さんの会 について

   
   詩人 黄 瀛さんの死。
 
お詫び:このブログの下書きを始めたのは7月30日からで、公表したのが、8月3日午前7時。今日(8月5日夕方)、偶然、目にした朝日新聞・8月3日の、朝刊35面の死亡欄に、釘付けになった。

           黄     瀛さん(こう
         ・えい=中国の詩人)7月
         30日、中国重慶市内の病
         院で白血病で死去、98歳。
         父が中国人、母が日本
         人。日本に留学し詩作を
         学ぶ。国民党将校などを
         経て、四川外国語学院で
          日本文学などを教えた。

と掲載されているのを見つけたからだ。生憎、取っている毎日新聞には掲載されていなかった為、黄 瀛さんが亡くなった事は知りませんでした。

 遅ればせながら、謹んで、黄 瀛氏のご冥福をお祈りいたします。(8月5日、PM:21時記す)

 
  詩人 黄 瀛 さんの会のこと。

 見知らぬ人の文章から、既知の人の消息、特に、生きておられることを知る事は、望外の喜びである。
 最近、気に為っていた詩人の消息を新聞記事で読み、ご存命である事を知り、一気に二十一年前のことを思い出した。 それは朝日新聞・2005年7月18日、朝刊の7面、オピニオン欄の”時流持論”で王 敏と言う法政大学の教授が『 黄瀛ともう「一つの祖国」』を書いているのを読んだからだ。
 驚いた。詩人 黄 瀛さんが生きている。お幾つに為られたのだろうか。

 早速、文化学院の事務職にある中村悦子女史に、問い合わせてみた。 私が黄瀛さんに会った時の事を。
 そして数日後、お茶の水の文化学院を訪れ、中村女史から、当時の写真と新聞記事等を見せて頂き、文芸評論家野口富士男さんに送る筈だった写真が、不用との事で残っていて、私も写っている写真と新聞記事のコピーとを頂いてきた。
今、頂いた二枚の写真を見直すと、私が髭を伸ばしていた時代の事が色々と思い出されてくるが、それはまた別な機会に譲る事にする。

     黄 瀛さんの会
     1984年6月22日(金) 12時より。
     文化学院メモリアル ルーム

 この数日前、科長で評論家の戸川エマさんから、学院の先輩の詩人が来るから、貴方も出ていらっしゃい、と突然、電話を頂いた。指示された時間に久しぶりに学院に行くと年配の方たちばかりで、若い、知人は一人も居なかった。だから遠慮がちに黄さんの隣りに座っている私が居た。その場には院長の西村アヤ、文化科長の戸川エマ、田上先生。その他、かって黄さんと同級だった人たち、そして洋画家の田坂乾、ドキメンタリー映画監督の亀井文夫さんらが居たのを今に為って中村女史に教わり知ったが、その時は知る術も無かった。

 あの時、黄さん自身の口から、詩人 草野新平さんのこと、女優 李 香蘭こと山口淑子さんのことを直接伺った。 そして私が持参した、黄さんの詩が掲載されているアンソロジーの文庫本版に、献辞を書いてくだされ署名をして下さった。今、その文庫本を探してみたのだが、未だ見つからない。何と書いてくださったのか、確かめてみたいのだが。(また探し出したら、お知らせ、します。)
 黄さんの四川外語学院日本語学部での教え子の第一期生が日本の法政大学の教授に為っているとは!
 時間の経過は目まぐるしく、激しく、早い。
 二十一年前に、黄さんが書いたエセイ「50年ぶり東京に来て」(1984年5月26日 読売新聞夕刊掲載)のコピーを読みながら、今こそ、黄さんらの力を借りてでも、日本のメッセージを、きちんと中国に発信し続けていかなければ、駄目なのではないだろうか。手遅れに為らなければいいのだが!
 文革の時、あれほど騒いだ毛沢東の陰は何処へ消えてしまったのか。
あの時の紅衛兵たちが、辺境に送られ、現在の上海の隆盛等を知る時、どんな感慨を持つのだろうか?
1989年の第二次天安門事件の伏流水は、何処へ流れて行ったのだろうか?

 歴史の顰に倣い、巨大化し過ぎた国が崩壊し、分割するのは時の必然か。


天童 大人

後書:

とても不思議な感じです。最近、何故か中国で起こっている反日運動の動きを見聞きしながら、しきりに、1度だけ逢った先輩詩人 黄 瀛さんの事を思い出していたのです。もし、王 敏教授の文章を見なければ、このブログも書かれなかった筈です。
 黄 瀛さんは、私に何かを告げようとしたのでしょう?
今の私には、分かりません。ただもう黄さんの力を、お借りする事は、永久に出来なくなりました。
日本の為にも、誠に残念な事です。(8月5日PM:21時30分記す).

昨日(10日)、個展の案内状を届けに、文化学院の事務室に立ち寄り、事務職の中村悦子女史と、またまたあの黄 瀛さんの会のことの話になりましたが、やはり中村女史も、8月3日の朝日新聞の黄瀛さんの死亡記事をご覧になっていないので、愕然とされていました。その筈でしょう。前日の8月9日、NHK仙台の或るデレクターから、黄瀛さんに付いての問い合わせの電話があり、恐らく、そのデレクターも黄 瀛さんの死はご存じ無かったのでしょう。黄 瀛さんの死は波紋が拡がっているようです。
 それにしても戸川エマ先生の慧眼に改めて敬服します。人と人を繋げて行く的確な出会いの設定、人の才能を見極める能力には、改めて脱帽です。あの時電話を頂かなければ、黄瀛と言う先輩詩人の事も知らずに過した事でしょうし、王敏教授の文章にも触発される事は無かったでしょうから。エマ先生、本当に有難う御座いました。(11日 AM:9時記す)。

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