大江健三郎 小説家の思い上がり
小説家の傲慢、そして「伝わらない言葉」
筆者の名前を隠して読んだら、誰もが唖然とするだろう志の低い文章が巷に氾濫している。
その最も悪しき例にも為る、拙い文章に、最近、出会った。
それは朝日新聞、2005年10月18日付の朝刊に、高名な小説家・大江健三郎が書いた文章 「伝える言葉」を偶々眼にしたからだ。
(是非、この文章を探し出して、大江健三郎と言う人間の精神の荒廃、誠意を何も感じさせない、自分の事しか考えていない人間性に、驚愕するだろう、いや、本当は既に多くの人々は、大江健三郎の自分勝手な、こんな事は既に感じていて、黙って、勝手に大江を踊らして、見て居るだけなのかも知れないが)。
大江健三郎、彼がノーベル文学賞を受賞しようが、しまいが、この男は何か胡散臭いと長い間、感じていた。
それは今から30数年前、日本航空の関係者で私の知人が沖縄のホテルで偶然、大江に出会った時の事を、巴里で聞いてからかもしれない。
時期的には、今、物議をかもしている『沖縄ノート』が出版された前後の事だろう。
“僕が沖縄に来ている事は誰にも言わないで貰いたい”と彼の上司に告げるのを傍で聞いて居て、可笑しな事を言う人だと友人は思ったそうだ。そして2001年6月29日 に起こった沖縄米兵少女暴行事件、(この時、既に大江はノーベル文学賞を受賞していた)沖縄米軍基地問題を含むこの問題に、嘗て『沖縄ノート』を書き、ノーベル文学賞を受賞した1人の文学者として、何か発言が有るかと期待していたが、何らの意思表示も行動も示されず、失望した記憶が在る。
そして久方振りに見るこの新聞の大江健三郎の書いた文章に触れて、精神の荒廃、いやそれ以前の人間としての愚かさを知り、愕然とした。(この文章は本当に本人が書いたのだろうか?余りにも酷すぎるからだ。)
文学、とりわけ小説の話しでは無い。朗読、「聲」の事に関係しているので、このまま黙って私は見過ごす訳にはいかない。
「聲」に関しては、私の「場」だ。大江健三郎がどんな人間であろうが、「聲」を甘く、簡単に考えている人間など、たとえ誰であろうと黙って許す事は出来ない。それと昨年6月、私がお世話に為ったシュトゥッガルトの「作家の家」の事には何も触れていないからだ。
書き出しはこうだ。(注意“ ”内は大江自身の文章)
“ 秋の初めのドイツを、三週間、ほぼ毎日鉄道で移動しては小説を朗読し、買ってもらった本にサインする旅をしました。”
確か国際交流基金のホームページでこの催事をサポートする告知を見た記憶があるのだがそれには一切触れていないのは何故だろう。何故、出版されただけでドイツ国内の朗読の旅なのか? 日本で自分の本が売れないからドイツで本のセールスマンに為ったのか?
嘗て大江健三郎が日本国内、北海道から沖縄まで、自ら会場を借り、切符を売っての自作朗読をして歩いた事が在ったのなら納得が出来る話だが、そんな話は一度も聴いた事が無い。
まして「場」が代われば聲の出し方も変わる。そんな全身で「場の力」を感じる能力は大江に無い事が分かった。
“私の場合、小説を読むといっても、出版されたばかりの独訳なので、/ 中略 / 先ず研究者か文芸記者による解説があり、私もそれに加わってから、原文を短く読み、土地の劇団の俳優がドイツ語の朗読を見事にやってくれます。”
最初に原作者の大江が自らの声で自作を読まず、研究者や文芸記者らの解説から始める朗読会とは何か?
どんな先入観を聴衆に刷り込む必要が在るのか?余程、大江自身は自分の新作に対する自信が無いのではないか?
朗読会は、作者自身の肉聲で、(出来ればマイク無し)行われるのが、通常の朗読会で、俳優の朗読を“見事にやってくれます”と言うのも可笑しな話しだ。
“声に出して読む行為は、私のように悪文伝説がドイツにまで伝えられている作家にも、自作を検討する機会ですし、聴く側の、文体感覚の訓練にも役立ちます。幼少時に読み聞かせられた経験を思い出してください。”
“聴く側の文体感覚の訓練にも役立ちます。”?
馬鹿さ加減も度が過ぎる。阿保か、大江は。何様だと思っているだ、この男は!
これは全く余計なお世話で、この悪文小説家の思い上がりを如実に示した言葉だ。
世界の何処にこんな馬鹿なことを平気で言う作家が居るだろうか?ここまで逆上せ上がり、高慢だとは思いもよらぬ事だった。
誰もなにも言わず、大江は 裸の王様 か。
例えばジェイムズ・ジョイスはどうだ。私の朗読を聴くと文体感覚の訓練になります、とジョイスが言っただろうか?
この酷いエセィを読んで、大江健三郎の肉声を聞いていない(聞けばどの程度の人物かは直ぐ分かる)ので、結
論は出せないが、彼は耳が悪いのでは無いだろうか?
後日、或るホームページで、ノーベル賞受賞講演の大江健三郎の聲のコピー音を聴いた。
下手な英語で、リズム感も無く、お粗末極まりない、70歳を越えたひとかどの人物の聲では無い。
聲は残酷だ! 整形は出来ないから、地の姿が出る。何れ何処かで、大江健三郎の肉声を聴いたら、皆さんに改めてお知らせし、お教えします。
やはり三週間、ドイツで朗読の旅をした大江が「聲」について、何も書き記さないのは、「聲」を出して四十年余りの経験を持つ私から見て驚くべきことだ。
本を読めば、朗読だと大江健三郎は安易に考えているようだが、そんな単純で簡単な事では有るまい。
恐らく、マイクの前で自作を朗読してきたに違いない。マイクに乗せて聞かせる聲はコピー音であって、肉聲のもつ力には遥かに及ばない事さえ知らないのではないか。
大江健三郎は自ら「聲」に対して、無知で有る事を曝け出しているがその無知である事にも実は気付いてはいない。
“さて、私はベルリンで働いていた時、” 大江はベルリンで働いていた事がある?
何をして?ワーキングビザで? まさか皿洗いをした訳でも有るまい。
最後に
“しかし、「文学の家」の経営が楽であるはずがなく、シュトゥットガルトのような経済の中心地では大企業が堂々たる建物を提供してくれていましたが、文学に通じた少数の人たちの献身で維持されているとも感じました。”
私が地元シュトゥットガルトの友人の詩人、T氏の紹介で三日間滞在したのは、昨年の6月。四階建てのこじんまりした「作家の家」。四階は執筆の為の長期滞在者用の部屋。三階は私のように短期に滞在し宿泊できる部屋が二部屋。シャワー、キッチン付きで安価で提供されている。二階は図書室と館長の部屋。一階は訪れる人達が寛げる空間。地下には安価なビ-ルやワインがあり、必要な人は代金を籠の中に入れて飲む事も出来る。また合鍵が渡され出入りも自由。こんな「作家の家」なら日本の各地に在っても良いと感じた。大江が書いたような、“堂々たる建物”でなくても、充分に機能を果たしていてアンチームな感じのこの「作家の家」に、大江は立ち寄っては居ないに違いない。もしかしたら、もう大江健三郎は作家では無いかも知れない。
ともあれドイツに行かなくても書ける文章。こんな駄文を平気で書く方も書く方、載せるほうも載せる方で、お粗末極まりない。
この何気ない手抜きの文章で、小説家・大江健三郎の精神の空洞を垣間見ることが出来た。
どうしてこんな拙い文章を書く男にノーベル財団はノーベル文学賞を与えたのか。何の御褒美なのか?
我々の知らない所で、公表出来ない何か特別の受賞理由が潜んでるのではないのか?
それにしても、ヴァレリーやプルーストも受賞はしていないノーベル文学賞とは、いったいどんな文学賞なのだろうか。
副題にある「再び書き直す」は、大江、自らが行う事だろうに。
自己に対しての戒めなのか、それにしてもお粗末な文章を書いて、良く平気で発表したものだ。
日本の俳優、声優諸君も、この大江の文章に対してキチンと対応をしておいた方が良いのに。
亡き義兄の伊丹十三が生きてたら、何て言うのだろうか、ね。
もっと謙虚に為った方が良いですよ、大江健三郎さん。
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