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2005/11/27

大西鉄之祐氏(早稲田大学元ラクビー部監督)の見事な見識。

 大西鉄之祐氏著 『闘争の倫理ースポーツの本源を問うー』(ニ玄社刊 昭和62年3月20日第一刷発行より)。

18年前、既に今日の日本の現状を憂いていた独りのスポーツマンが居たことを知った。

 最近、家の近くに在る古書店で、一冊の妙に気に為る背表紙の本を見付けた。

 皆さん!本の背には品格、人格が宿っている事をご存知ですか。
説明できない、何か、何かが本の背にはあるのですよ。皆さん!
書店で或は古書店で、本の背をじっくり眺めて見てください。何かが語りかけて来たら、手に取って見て下さい。
 その本はあなたにとって大切な本に為る筈ですよ。試して見てください。
どれだけ装幀家が日本に居るのか、知りませんが、タイトルが悪いのか、内容が悪いのか、装幀家が悪いのか、判りませんが、中々,本を手に取るところまでは行きませんよ。

 表題にある大西鉄之祐著『闘争の倫理ースポーツの本源を問うー』(二玄社刊)である。大西氏は早稲田大学ラクビー部の監督だった人との記憶があっただけだ。早速、実際に本を手にとって表紙を開いて見ると、其処には、昭和六二年四月十二日 榮 隆男と署名があり、そして宛名に未知の二人の名前、

天は自ら励む者を
必ず見守っているのだ。

と、識語が書かれて在った。

次いで、ページを捲り、巻頭の”はじめに”、と言う文章を読み、今でも当てはまる事だけに、この文章が大西鉄之祐氏の書かれた文章であるか又は誰か他の人の文章なのか分からなかったので、発行元の二玄社に電話をして訊ねてみた。しかし、原本も無く、はっきり分からないとの事なので、当時の状況を知っている人に確認をして貰う事にした。
数日後、当時の担当者から電話をいただき、大西氏の文である事を確認し、私のブログで紹介する許可をいただいたので、ここに大西氏の文章を紹介したいと思う。
 何故、如何なる故に18年前の大西鉄之祐氏の文章を、今、紹介したいのか?

それは一読されたらお分かり頂けると思う。

 先に、大江健三郎の小説家の思いあがりとも言うべき拙い文章を読んだ後だけに、余計に大西鉄之祐氏の志の高さを痛感した、と同時に、今日の日本の危うさが既に18年前に、大西鉄之祐氏に喝破されているからだ。
 略そうとしたが無理なので、敢えて全文を掲載させていただき、眠っている皆さんの心を覚醒するお手伝いが出来ればこの上ない幸せだ。
では

大西鉄之祐著『闘争の倫理ースポーツの本源を問うー』(ニ玄社刊 昭和62年3月20日第一刷発行)より。


        はじめに

 自由と緊張と歓喜の大学生活から天国と地獄程違う軍隊の奴隷生活、そして戦闘の真唯中へ、屈辱の捕虜生活、見るにたえない占領中の飢餓生活、英霊に報いんと遮二無二働いた復興生活、ようやく迎えた敗戦後の平和。こうしてふりかえって見ると平和と戦争の中を直接肌で感じながらの人生であった。直接経験しながら、はたして自分の意思で決定してこれらをやってきたのかと考えると、一部何等かの考えがあったかも知れないが、全く浮き草のように流れにただよって来たような気がする。特に生と死をあずける戦争なのに、唯一枚の赤紙(召集令状)で召集され、唯気狂いのように人を殺し、いわんや戦友を殺され、戦い破れて帰国すれば全財産を没収されているとは。しかもこれらはすべては私の意志に何のかかわりもなく行われている。これが戦争なのだと言えばそれまでだが、戦争をやった国家、政府とは何なのだと言わざるをえない。国家や政府は国民の幸福を守るためにあるのではないか。殺すためにあるのではなかろう。しかも戦時の政府要人が敗戦後ものめのめと生きているなんて。生死のコントロールの出来ない人間のあわれさよ。
 こいうことを思い出しながら現在のわが国の政治状況を考えてみると、大東亜戦争突入前数年にわたる政府の状況にだんだん似てきているように思えてならないのである。アメリカとの安全保障条約を盾とした軍備の増強と施設の充実、仮想敵国の想定、憲法の改正、国家機密法の制定。教科書検定の強化、経済復興に伴う青少年教育の批判、歓楽街、亭楽業に対する統制の強化、低調なる議会政治に対する国民の政治ばなれ、野党の弱体化と商業ジャーナリズムの機能の限界、教育過程への武道の復活、国民体育大会への銃剣術の加入、国旗国家への感情的表徴の強化、国際経済逼迫に伴う景気回復のための軍需産業の復活等々。
 これらのことはたいしたことではないではないかと思われるであろう。われわれも戦争突入前はそう思っていたのである。現在の経済的状況が摩擦ではすまずますます行きづまってゆけば、現在の国民水準を落とさずに維持するためには内需拡大などということではおさまらず、軍需産業の振興に力をそそがざるをえない状況に置かれるだろう。現在のように国民の大部分がサラリーマン化した現状ではその時になってこれを拒否することはできないであろう。何となればそれまでの大衆民主々義体制は政治的にコントロールしやすい国家主義体制になりやすく、特に官僚出身代議士の多い場合および戦争による新旧交代の少なかったわが国の場合は、その傾向が特に強い。敗戦後天皇の権力であった軍隊の統帥権が首相に移ってから、首相は政治、行政、軍隊を掌握する大権を握るにいたった。与党の党首として議員の過半数を獲得した現在、その権力たるや強大なものがある。武力と情報を握った権力者がいかに強いものであるかは、戦争に突入していったいまわしい過去の過程を見れば明らかであり、もう一度充分反省してみる必要がある。
 こうしたことを書くと、そんなことがもう一度起るなどということは考えられないと思うだろう。われわれも戦争の起こる前はそう思っていたのである。ところが何時の間にか戦争に突入して行った。武力を握ったものの大衆社会への心理操作や、マスコミの統制と政治的反対派への実力行使がいかに社会情勢を変えて行くかを考えれば、われわれは今にしてこうした事態が起こる前にいかに対処するかを考え防止して行かないと、大勢が決められてからではもう遅いのである。
 われわれがいま持っている平和は、敗戦後の国際的な諸状勢によってもたらされたものであって、われわれの血を流して獲得したものではない。従って現在の国民の大部分は平和があたり前のように思っている。そして戦争などまさかと思っているであろう。昭和七年満州事変勃発から五年で戦争は始まっている。平和から戦争へ、そして暗黒の敗戦から四十年、命がけでつかみとったこの平和を守りきらなければならない。無意味な戦争に血を流すなら、現在の貴重な平和を守るために命がけで戦う覚悟が必要であろう。
 
 
    『闘争の倫理ースポーツの本源を問うー』大西鉄之祐著 二玄社刊(昭和六十二年三月二十日第一刷発行)より引用。


 以上が ”はじめに”の全文です。

 一読して今の日本にも当て嵌まりませんか。
ぜひとも私のブログの未知の読者にもこの事を知っていただきたく掲載しました。
是非、多くの人にご紹介下さい。御願いしますよ。
独り、一人の心の力ですからね。

平和惚けして、浮かれている時ではありませんよ。
昨今、憲法改正、皇室典範改正、防衛庁を省に昇格等など、きな臭い動きが目立ちます。

突然、徴兵制が施行されるかもしれませんよ。
何故、民主党は、現政権に対して、徴兵制を施行される予定は在るのか、無いのか、問い質さないのでしょうか。
不思議でなりません。
早稲田大学ラグビー部の監督大西鉄之祐氏がこんな文章を書かれている事を迂闊にも知りませんでした。

この本は、”はじめに”を読んだだけで本文には、未だ手を触れていません。追々読む考えです。
もし、生きて居られたならば、すぐにでも一度で良いからお目にかかりたかった人物です。
誠に残念です。

 遅ればせながら、謹んで大西鉄之祐氏のご冥福をお祈りいたします。

                   天童 大人

追記 掲載を許可下さった二玄社の誠意に対しお礼を申し上げます。

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2005/11/20

ジュリアン・シュナーベル(画家)との奇妙な出会い。

 或る画廊のオープニング・パーティで、作品を眺めていると、写真家の安斎重男氏がやって来て、「シュナーベルが、あんな面白い日本人が日本に居るとは思わなかったって。翌日、箱根に行ってる間中、お前の事を話していたぞ。よっぽど気にいったらしいから、手紙を書いてやれよ。」と言った。
 
 一瞬、「シュナーベルって、ジュリアン?」と訊ね直す。思い返すと可笑しい。

 あれはニヵ月位の銀座で行われた新進彫刻家Aのニ次会の会場でのことだった。
 友人の画家・堀内康司氏と立ち話をしていた時、会場の入り口付近が騒がしく為ったので、視線を向けると、若い外人夫妻が入って来るのが見えた。人々が何か囁き始めたが、私には如何してなのか分からない。その外人の男と視線が合うと「ヤァ」と言った表情で、軽く、私に向って右手をあげたので、私も自然に「ヤァ」という感じで右手を挙げて答えた。
 私たちの様子を見ていた堀内氏が、「知り合いか?」と問うので、「知らない」と答えると驚いた様子で、「ジュリアン・シュナーベルだよ。アメリカの若手の画家で有名な。今、世田谷区立美術館での『カブキ展』の為の制作に来日中だ。本当にお前、知らないのか?」と問われても知らないものは知らない。
 「何処かで逢った事がある人ではないのか。お前を呼んでるぞ、行ってやれよ」という言葉で、彼の方を見ると、写真家安斎重男と話をしながら、「ヤァ」と微笑みながら、再び手を挙げているので、彼のところに行った。
「ボン・ソワール」から二人の会話は始まったのだろうか。
 話し始めると隣に座っているシュナーベル夫人が驚いた表情で見ている。
それはそうだろう、会話はフランス語とスペイン語と英語とが一つのフレーズの中で混じりあいながら話すのだから。
 面白いようにお互いが話す混合語が通じ合う。
 何故か初対面のシュナーベルとは気が合った。夫人に安斎氏が私の事を説明している。なんと言っているかは分からない。
 結構、長い間、話したのではなかったか。
 「また逢おう」と言って別れた。
 「随分、気が合っていたみたいだ。本当に初対面なのか?」と堀内氏。嘘も本当も無い。「初対面だよ」
 「へーえ、凄いな。初対面で、世界のジュリアン・シュナーベルと対等にあれだけ話せるだから、テンドウも世界的だね。奴も驚いたことだろう。」
 どんなに綺麗な発音でも、相手の言葉が全く通じない事がある。本当に「気」が合わない人々が居る事を知ったのは33年前、、初めてスペイン北部の深山で修業していた頃のことだ。

 「シュナーベルがいずれお前と仕事をしたいと言っていたぞ。」と安斎氏が親切に教えてくれた。在り難い事だ。もう私もこの画家の仕事を知っている。
 いずれこの世界の何処かで、必ず一緒に仕事をすることに為る事は、初めて「聲」を交わした瞬間から分かった。
 1989年10月初旬、マドリーに着いた時、彼が一週間前まで、マラガに居たことを知った。帰国後、彼に手紙を書き送ったがしかし、返事は未だ無い。

 あれから16年、今、ジュリアン・シュナーベルは絵画から映像へと表現の世界を替えて映画監督。
 『バスキア』、『夜になる前に』等の映画作品を制作して居る。

 さて、何処で、何時、如何、ジュリアン・シュナーベルと出会うのか、楽しみな事だ。

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