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2005/03/12

不出世のオペラ歌手 ガリーナ・ヴィシネフスカヤの素顔

        不出世のオペラ歌手

     ガリーナ・ヴィシネフスカヤの素顔


        13年間、夢見たレッスン

 私は13年前(1977年)、パリに住んでいた時、ご主人のピアノで歌うガリーナ・ヴィシネフスカヤ夫人の肉声を初めて耳にした。瞬時に、私は1度だけでいいからこの人のレッスンを受けて見たいと思った。一緒に聴きに行った国立パリ音楽院の学生たちに興奮して,話したことを昨日のように、はっきり覚えている。以来、彼女の「声の質」と「声の力」とのことを常に考え続けてきた。
 その夫人に今年1月(1990年)、東京で偶然、会うことができた。 ロストロポービッチ氏が率いるナショナル交響楽団の来日公演の歓迎パーティーの席上だった。
 私は3年前、東京の画廊で「天童大人即興朗唱の世界」を開いたが、そのとき、二次会の席まで来て、私の声を「ユニバーサル・ボイス(宇宙の声)」と名付けてくれたケネディ・センターのジュリアン・プール女史と旧交を温めるのがパーティー出席の目的だった。ご主人と共に談笑するガリーナ夫人を目の前にして、私は迷ったが、意を決して話しかけた。
 13年前からの経緯を簡単に説明して、あなたのレッスンを1度受けたいと話すと、7月にザルツブルグでアカデミーがあると言う。
 私は詩人で、お金は取ってはいるが、歌手ではないと言うと、今、時間がないので、ザルツブルク・フェステバルのマスター・クラスに来ればよい、と再び言う。後で、私は自分の名前さえも名乗っていないことに気がついた。
 その1月、夫妻はソ連市民権を回復したばかりがったが、日本公演のあとの2月11日、16年ぶりに故国ソ連の地を踏んだ。
 私は、夫人の誘ってくれたマスター・クラスへの参加にちゅうちょしていた。
 レッスンを受けたいという思いと同時に、私が行っている「即興朗唱」を一度彼女に聴いてもらいたい、との思いが重なってなかなか決断がつきにくかった。私の「字」展の仲間でもある画家の村井正誠さんや、私の「字」を初めに認めて下さった英文学者寿学文章さんに事の経緯を話し相談した。二人とも滅多にない機会だから行った方がよいと言われた。
 7月16日、準備を整えてオーストリアに渡った。モーツァルテウム音楽院のガリーナ・ヴィシネフスカヤのマスター・クラスには21人の生徒と3人の通訳がいたが、日本人は私ひとりだった。
 オーディションが始まった。生徒たちの声や歌を聴きながら、日本でならこんな機会も最初からないだろうと思った。誰もが緊張しているから拍手も鳴らない。私は特殊だから最後だとばかり、自分勝手に思い込んでいた。突然、私の名前が呼ばれた。最初、私の説明がうまく伝わらない。ヴィシネフスカヤ夫人は「やってごらん」と言う。ピアノの前に跪き、歌舞伎で使う拍子木をいつものように一つ鳴らし。チベットのチョンマイを3つ鳴らし、クラシックのオーディションでは前代未聞であろう「即興朗唱」を演じた。終わると教室にいた全員からの温かい拍手。
 私は遂に自分の内に秘めていた念願を果たしたことをしみじみと実感した。
 生徒全員が退出した教室に、先生と私とピアニストが残り、声を出させられた。しかし、正規の音楽教育を受けていない私には、ピアノの音に合わせての正確な声はすぐには出てこなかった。


         64歳とは思えぬ若さと行動力


 翌17日から午前3時間、午後3時間あまりの授業を1日も休むことなく受け続けたが、決して飽きることはなかった。
 彼女の教え方は精力的だった。64歳とは思えぬほど若々しく、休む間も無く教室を動きまわるのだった。この小柄な歌姫が、時折、声を出すと、教室に一瞬のうちに静寂が訪れ、耳を楽しませてくれる。声の出し方が微妙になるたびに、彼女は生徒に基本を徹底的に繰り返させる。ある日、授業の帰りに、カフェで、自分が教えていることは、私が最初の先生に習ったことを今、あなたたちに教えているのだと告げた。自分は2ヵ月でマスターしたとも。
 彼女の中間音は決して落ちなかった。腹部の回りは総て振動させて、目の下から胸部までを開くことによって、声を出しコントロールさせる技術は、ジャンルを超えて学ぶ事が沢山ある。彼女が教えた通り試みてみると、実際に強く、高く響く声を発することが出来るのだ。本当にこの技術を学び得たのは嬉しい事だった。
 13年前の声の記憶が、私に与えた影響は大きかった。だから「声ノ力」と「声ノ質」とを最大限に発揮出来る肉声による「即興朗唱」という新しいジャンルを興したのだった。
 3週目、彼女が突然、「あなたはいつも1番に教室にいるね。来週から一緒にイギリスに行かないか」と言った。こんなに熱心に勉強するとは思わなかったに違いない。子供のような学生たちと席を同じくしての40の手習いの3週間は、あっという間に過ぎ去った。


       『毎日グラフ』(1990年10-14号)に、写真9葉と共に掲載される。
       これが写真家としての、記念すべきデビュー作品。

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2005/03/06

文化としての書物か、消耗品としての大量印刷物か

パリからの出版依頼で、知らされた活版文化継承の必要性


                      天童 大人

        頭の中が真っ白

 パリ市内のレストランで会食中に、初対面の出版社の社長から、突然、テンドオの作品集を出版したいと言われ、頭の中が真っ白になった一瞬の刻のことをはっきり覚えている。
 昨年(2000年)の11月23日、パリ7区にあるイリアナ・ブブリス画廊で、今年40歳になるスイス・ローザンヌ在住の彫刻家イヴ・ダナの12年振り、二冊目の作品集『DANA』(セルクルダアート出版社刊)の出版記念展覧会のオープニング・パーティが盛大に行われた。
 その後、近くのレストランを借り切って親しい人々によるディナーパーティがあり、遅れて会場に入った私は、手招きしてくれたダナの両親の前に座った。右側には一組の夫婦、その奥には、今日出会ったばかりの写真家アンドレ・ナガール夫妻。ナガールはダナの父親とエジプト・アレキサンドリア時代からの友人で、ダナと同じ出版社から、同じ版型の作品集を刊行していた。そしてダナ夫人の横に座って、誰とも親しく会話を交わしているひとりの紳士がいた。私が隣の夫人に、即興朗唱詩集『大神 キッキ・マニトウ』の仏語だけの小冊子を渡すのを見て、彼は、私にもマニトウが欲しいと言った。何も言わないのに、何故、彼が知っているのか訝しく思いながらも、私は鞄の中を捜したが無いので、名刺を下されば後で送ると言うと、彼は微笑みながら名刺を手渡してくれた。
 同朝、本代を支払いに行った『DANA』の出版社の社長だったので、私は驚いた。続いて、社長が冒頭の言葉を言ったのだが、同席した誰もが驚いてはいない。結局、二日後、出版社で社長に会い、話を聞いてみると、私の「字」の作品、写真の作品、そして詩作品の三本立てで編集する考えを示してくれた。

        何故、無名の私に

 しかし、巴里にだって日本人のアーティストが、沢山住んでいる筈だし、日本にだって有名な作家が大勢いるのに、何故、無名の私に白羽の矢が当たったのか。もし、これが事実なら、日本にいる多くの無名のアーティストにも、海外で作品集が作れるという、大きな励みになることではないか。この出版社から、日本人作家としてはただひとり画家の菅井汲が作品集を刊行している。
 後日、ローザンヌで、イヴ・ダナに再会した時、何故、この「私」なのかを訊ねた。社長は、以前から機会があればテンドオに会いたがっていたこと、十年前のグリフォン社との交渉、自分とテンドオとの関わり合い方などをずうっと見守っていて、テンドオに関心を持っていたと言う。異国の出版社の社長が、私の動きや仕事に注意を払い続けてくれていたなど、夢にも考えたことなどなかっただけに驚くばかりだ。
 帰国後、作品集『SUGAI』(リブロポート刊)をじっくり見て、あの疑問が氷解した。評論を書いているジャン=クララン・ランベールに、三年前、コロンビア・メデジンでの第七回国際詩祭で出会っていたのだ。
 その時、活版印刷で作った私の二冊の詩集『エズラ・パウンドの碧い指環』(北十字舎刊)と『大神 キッキ・マニトウ』(北十字舎刊)とを贈った。彼は印面を指先で撫でながら、美しい書物!と言ったフランス代表の詩人だった。だから社長はこの詩集を、マニトウを見て知っていたのだ。
 活版印刷で刷られた書物をリーブルと呼び、大量印刷の本をプリンティング・マターと呼び分ける。
 私が一冊の書物の重要性を識り、活版印刷での詩集を作っているのを知ったからこそ、私の作品集を作りたいと考えたのではないか。
 今、東京で活版印刷が出来る印刷所はほんのわずかだ。活版印刷文化を維持し、守ろうといった国家的な動きは
どこにも見えなかった。いつの間にか「書物」が、この国から姿を消しつつあるのが現状だ。

            通用する作品を

 今回、実際に異国での出版の申し出を受けてみて、作品のポジフィルム、フランス語訳の作品クレジット、評論、年譜、展覧会歴などすぐに対応出来ないことがはっきり分かった。恐らく私だけではないだろう。
 国際的に通用する作家を目指しながら、パスポートとも言うべき作品集を一冊も持たない、国内でのみ有名なだけの作家が余りにも多いのではないか。
 十一年前、イヴ・ダナの初めての作品集を見て、彼の才能を発見すると同時に、一冊の書物の持つ重さを熟知してから、出会った数多くの作家たちに作品集を持つ事の意味を語ってきた。その私に、外国から作品集を作る話が舞い込んで来る時代だ。
 いま一度、志ある作家たちは、世界に通用する書物として、自分自身の作品集について、熟考する時ではないだろうか。


        公明新聞(日曜版)  2000年3月19日に掲載

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