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2005/03/18

彫刻家 砂澤 ビッキ

      彫刻家 砂澤 ビッキ  
  
                     天童 大人


 1月20日(1989年)、東京・羽田上空は暴風雨だった。旭川から飛び立ったJAS機も羽田上空まで来たが、着陸出来ず、札幌に引き返していた。札幌,10時20分発、JAL504便は、羽田上空で旋回を繰り返していた。機内には点滴液の予備を持たない砂澤ビッキが、女医に付き添われながら横たわっていた。今、札幌に引き返すことは時間的に余裕はなかった。まして他の飛行場に着陸することなどビッキには、絶対に許せないことだった。ただこの日、この時の為にの為にのみ、自らの全エネルギーを集中し、表現者として己の展覧会の飾り付けに向かう為に、生きてきた。病はすでに極限に近づいている。
 羽田上空を旋回すること40分余り、JAL504便は、無事に着陸した。彫刻家砂澤ビッキの生きる執念が着陸させたというべきではないだろうか。
 恐らく、羽田空港で待っていた人々は、北海道からの全便が引き返すなかで、JAL504便だけが、何故、着陸出来たのか、未だ分からないままでいるのではないだろうか。

 「もし、もし」あまり聞いたことが無い、誰だかはっきり分からない聲が受話器の奥のほうから響いてきた。
 「テ・ン・ド・オ・さんですか?」 「え・え・どなたですか?」
 「ノ・ボ・リ・ですが」ああ、写真家の野堀成美さんだった。
 「ビッキのことはご存知でしょう?」、ビッキの病状が重いことは昨年11月頃から聞き知っていた。
 北海道の友人からも、連絡が入ってきていた。「明日、ビッキは会場に午後1時から4時迄しかいないので、縁のある人たちにおいでいただきたい」とのお誘いの電話だった。「明日」、それは1月21日から2月5日まで、上野憲男・砂澤ビッキ・吹田文明の三作家による「現代作家シリーズ 89」が、神奈川県立県民ホールで行われるので、札幌の病院で面会謝絶の筈のビッキが出て来るというのだ。

 展覧会のオープンニングパーティは普通、5時か6時頃から始まる。そう思い込んで会場に来る人は、永遠にビッキに会えない。
早速、親しい「字」の仲間でもある美術評論家の酒井忠康さん、櫟画廊の小林真砂子さん、「櫨端」の井上孝雄さん、吉増剛造留守番電話に、そして87年の関内ギャラリーのビッキの個展会場で出会った絵本作家の五十嵐豊子さん等にお知らせだけはした。

 「ビッキ」とはアイヌ語で蛙を意味するコトバだ。
 
 彫刻家砂澤ビッキ、本人と初めて出会ったのは、80年7月、第二回「詩の隊商-北へ-」に参加して、札幌・帯広・士別・音威子府・稚内への朗唱巡業公演でだった。(この体験が、今年はこの2月16日から26日まで、帯広・釧路・北見・紋別・栗山・函館・札幌・石狩と巡る「北ノ朗唱」の7年間の礎になっている。)
 音威子府ではビッキのアトリエが、朗唱会場だった。それまでに京都の「ほんやら洞の詩人たち」の片桐ユズル・グループは消え、有馬敲氏だけが残ったが、彼もまた汽車の都合で、二次会に出ること無く消えた。
 ビッキと話をしたのは朗唱会の終わった後だった。ビッキが「なんだか、お前が京都の連中を批判し始めたら、有馬があわてて、お前の足元にあったテープレコーダーをとりに行ったが、あれはどういうことだ!」との問いかけだった。事情を手短に説明した。ビッキは大きな体を揺すり、聲をたてて笑った。そして、アトリエの壁に掛けてある見事な形をした鮭の乾物に気がついた私に向かって、「もし、上手に半身を切り取ることが出来たら、やるよ。色々な奴が狙っていたが誰も出来なかった。」
 まさか私が本当に切り取るとはビッキは思っていなかったに違いない。壁から取り外し、最も鋭利な刃物を手に持って、一気に捌いた。そして半身が欠けているとは、誰にも気づかれぬように再び壁に掛けた。ビッキは苦笑いしていた。半身は瞬く間に、集まっていた詩人たちの胃袋に納まった。こんな事があったせいかどうかは分からないが、一緒にグループ展をやる機会が出てきた。
 81年の「北の詩人たち展」(東京)を始めとし、この1月(1989年)13日から28日まで、新橋のギャラリーいそがや、で行われた画廊企画・第一回「天に翔ける男たち」展まで、6回も行なったことになる。
 昨年11月、札幌の病院に入院しているビッキに電話した。奥さんの涼子さんが出て、「天童さん、どうしてもビッキにやらせたいの。」「もちろん、急に抜けると皆がおかしいと思いますよ。元気なんだから、また「字」を書いてくださいよ。」

 1月12日、ギャラリーいそがや、には、すでに飾り付け・準備のため、いけばな作家中川幸夫さんがいて、作品の配置をテキパキと決めていた。ビッキの作品は届いていなかった。不安にかられ、札幌へ、電話した。涼子さんが出て、ビッキに替わった。
 「天童、ゴメン、未だ出来ていない。中川さんは?」、「今、飾り付けをしていて、間もなく村井(正誠)さんが作品を持って来るよ。」、「手がねえ」、「そんなこと言わないで「字」を書いてよ、中川さんも、皆、ビッキの作品を待っているんだから。」、「ああ、わかった。明日、間違いなく送るから。」、「頼むよ。」、「ああ、分かった。」
 14日に作品は無事に届き、中川幸夫さんが飾り付けをやってくれたという。というのも、私は、15・16両日、金沢での朗唱公演の為、14日のごごには、東京を離れたからだ。
 1月21日、桜木町からタクシーで県民ホールに着いたのは3時だった。丁度ビッキを寝たまま寝台車から、運び出す時で、手を貸すことになった。腕には点滴の管を付けたままだ。ホール内に運び、車椅子に乗せる時、そをっと足に触ってみた。足は太っているのではなく、パンパンに張っていた。瞳にまで黄疸症状がすでに出ていた。
 会場には人が集まり始めていた。酒井忠康さんの姿も見えた。五十嵐豊子夫妻もいた。作家の加藤幸子さんも、矢川澄子さんとご一緒に姿を現していた。札幌からずうっと付き添っている女医さんも心配そうにビッキを見守っている。すでにビッキが癌であることを知っている者にとっては、今の姿を見ることは誠に忍び難い。
 自分の作品展を見届ける為に命懸けでやってきた作家魂は、昨今、稀なことだ。
 この事は、創作家たちに、もう一度、自らを問い正す、良い機会になるだろう。
 ともあれ、長い時間、会場にビッキは居れる状態ではなかった。県民ギャラリーの学芸員・藤島さんから、人に集まって貰うから、手閉めして欲しいと言われ、折角だから、五本閉めで行うことにした。集まった数十人の人々がビッキの木彫作品群のなか、寝台車に横たわるビッキを囲むようにして、聲ヲ発シタ。
 ビッキの挨拶も、儀礼的なものではなく、聲の力が弱かったとはいえ、「作家の責任を果たしたい」という願いが脈々と波打っていた。
 これ以上はという、ドクタース・トップが掛かり、会場から去って行った。酒井忠康さん、五十嵐豊子御夫妻と私の四人は、二階のカフェで、ビッキの話に花を咲かせた。
 4日後の1月25日、札幌・愛育病院で大腸癌のため、息を止めた。五十七歳だった。


     詩誌「ハリー」第17号(1989年3月1日発行)に掲載、 に改稿する。                                     

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2005/03/17

詩人吉田一穂著『極の誘ひ』について

     詩人吉田一穂著『極の誘ひ』ついて


                    天童 匡史


 すでに完成されてしまった個人の年譜に、新たに書き加えることがあるとすれば、それは何を意味するであろうか。
 単行本として『極の誘ひ』は今迄の一穂のどの年譜にも記されてはいない。恐らく詩人吉田一穂のことをよく知る人々にとっても、『極の誘ひ』の存在を知らないのではないかと思われるので、ここに初めて書き記すことにする。

 詩論集『黒潮回帰』は1941年11月8日一路書苑より、函付(定価1圓20銭)で刊行された。
 内容は/序/極の誘ひ/黒潮回帰/鶴の説/穀物と葡萄の祝祭/野性の幻影/ハムレットの髑髏/砂/龍を描/半眼微笑/俳句の辦証法的構造/月の民/天幕の書/の12編より成っている。
 またこの試論集『黒潮回帰』は1948年11月15日、同じ一路書苑よりカバー装(定価200圓)にて刊行されている。
  『極の誘ひ』は先の12編より、同じ紙型で/極の誘ひ/穀物と葡萄の祝祭/野性の幻影/ハムレットの髑髏/龍を描く/俳句の辮証法的構造/の6編から成り、1948年6月8日一路書店より定価35円で発行された。この縦14,5×横10,8cm、52頁の小型本は、古書市場でも滅多に見ることの出来無い、幻の珍本と言えるだろう。
 これらの書物の発行者は、今年(1977年)1月、著書を持つ者にとっての理想である自刻、自装、自製本による瀟洒な私家版詩集『アスーリヤ(無日抄)』を刊行された詩人小山一郎氏である。
 6年前、吉田一穂主宰、詩誌「反世界」を購いたく、小山一郎氏に直接に連絡を取らなければ、吉田一穂、鷲巣繁男両氏との出逢いも無かったに違いない。 かてて加えて、一穂とピレネー山脈での約束を取り交わすことはありえなかった筈だ。

 1972年3月30日、小山一郎氏の案内で、初めて真の「詩人」に会った。吉田一穂氏に会った。その時、私は二冊の本を持参して行った。
 一冊は小山氏より頂戴した試論集『黒潮回帰』であり、他の一冊は、以前、池袋の高野書店にて見付けて、購った吉田一穂先生と署名された加藤郁乎著『眺望論』(現代思潮社刊)である。この詩論集のなかの「雲形をめぐってー或る日の吉田一穂ー」に、十ヵ所余り鉛筆での書き入れがあり、それが一穂自身の手による書き込みかどうかを、直接、詩人に確かめてみようと考えたからだ。一穂は「こんなこと書いたかな」と言いながら、「うん、これは俺の字に間違いない」と言った。(この書き込みのことは、加藤郁乎氏は知らないので、1972年6月に、新装第一版として、再販されたが、訂正はされていない。)
 一穂と私が、旨く話が噛み合うかと心配されていたに違いない小山氏を横に、話は積丹半島から始まった。
 一穂と話し始めると、彼が日本海を眺めながら生活した北の男であることを私は直識した。本質が理解出来れば猥雑な知識など必要ではなかった。
 幼少時代を小樽市で過した私にとって、一穂と語ることに余計な心配は全くいらなかった。私は、同質の人間に出逢えた喜びと、様々な試論を心置きなく話せることに酔っていた。
 スペインに向けて出発する前に、もう一度訪れることを私が告げると、ピレネーの登るのかと詩人は問うた。
 -ええ、一度は必ず、と未だ見ぬ異国の山々の雄姿を想い描きながら答えた。
 -頼みがある。ピレネーの山の頂きで、鉄砲を撃つと、銃声はキーンと言う金属音がするそうだが、本当かどうかを確かめてもらいたい。
 私は詩人に、何処でその銃声を聞き覚えたのか問わぬまま、日本に戻ってきた折に話すことを約束して、小山氏と共に辞した。
 もう十年早く出逢っていれば、もっと鋭く面白かったのにと、小山氏に言われても、いかんともしがたいことだった。

 暫らく経てから、新宿の或る飲み屋の開店祝いに、女友達から呼び出されたので、私も行って見た。私たちの反対側の席には、埴谷雄高夫妻、松山俊太郎、大島渚らが居た。時間も経ち、私の横に置かれていた背広を、千鳥足の大島渚氏が取りに来て消え、埴谷夫妻の姿もいつの間にか見えなくなり、松山俊太郎氏が私たちの席に入り、話の弾みで、私とジョルジュ・バタイユの話になり、吉田一穂の話になった。彼は一穂の弟子にろくなのはいない。窪田般彌や加藤郁乎の一穂論じゃ、一穂が可哀想だ、誰かが本格的な一穂論を書かない限り、一穂は正当に評価されないと言った。近く私は一穂に会うと言うと、吉田一穂は、何故萩原朔太郎が嫌いなのか、それをちゃんと聞いておいてもらいたいと言った。
 いずれ、何処かで出逢った時に、お教えすることを私は約束し、連れだって階段を降り、街角で、犬に吠えられながら左右に別れた。

 後日、小山氏から連絡があり、約束の日時に、一穂宅を訪れた。
 小山氏の姿はそこにはなかった。私は松山俊太郎氏との約束を果たす為に、起き上がった詩人に問うた。一穂が語り終えたとき、小山氏が渋沢孝輔氏を伴って入ってきた。(渋沢には著書『極の誘ひ』がある。)
 
 渋谷駅で、渋沢氏は、これから韓国の友人と埴谷雄高のところへ行くといって、人混みのなかに消えて行く後姿を、私は小山氏と見送りながら、新宿の飲み屋の二階で見た、視線の鋭い埴谷の顔と、吉田一穂との顔とを重ね合わせて見た。

 その夏、私は密かに日本を出発した。

 1973年、2月17日付で小山氏から、スペインに住んで居た私のところに葉書が届いた。
 「前略/一穂先生は一月中旬鬼子母神病院に入院されましたが、病状はかなり悪く、口もきけず、意識もずっと混濁の状態です。お正月頃はまだ元気で”匡史君から便りをもらった”と喜んでいました。「桃花村」は暮れに出版されました。(後略)」

 三月四日、友人のN・K。K・I両氏より、速達によって詩人の死亡記事が届けられた。
 この時までに、私は一穂との約束を果たしていなかった事が悔やまれてならなかった。

 五月中旬、巴里よりスペインに帰ってみると、小山氏より現代詩手帖四月号、吉田一穂特集号が送られて来てをり、死者は絶対に裏切らないという実感をもって読んだ。
 子息八岑氏によって作成された年譜にも、小山氏宅にて見た著書『極の誘ひ』の事は何処にも記されてなかった。

 トルコからの帰路、ピレネー山脈の頂きに立ち、一穂との約束であった念願の音を、自分の耳で捉えることが出来た。しかし、告げるべき人は、もうこの世に居ない。下山の途中、私は太陽からひとつの啓示を受けた。

 1974年春、日本に戻り、再び訪れたヨーロッパから戻った昨年の9月、一穂の本が、復刊されたり、新たに刊行されている事を知った。
 久方振りに小山氏宅を訪れ、かって私が小山氏に差し上げた『羅甸薔薇』のカバーが手垢で汚れているのにすぐ気がついた。それは吉田一穂が舐めるように見たためだという。
 近く吉田一穂全集(全三巻)が刊行されると聞く。

 詩人の死後に、はじめて気がついたように書物が刊行される事は、全く<知>の世界を、己の世界に持ちえぬ日本では当然の事かも知れない。

 古書「ほんのもくろく」其の二 に掲載  高野書店(1977年4月)発行より。

追記
 この目録を発行した高野書店店主 高野之夫氏は、現 豊島区長。

その後吉田一穂全集は、二度に渡り、小沢書店から刊行され、1993年4月に刊行された定本吉田一穂全集、第二巻、及び別巻の年譜には、『極の誘ひ』(現存部数は数部ナリ)は記載されている。
 2003年に、加藤郁乎氏には、一穂の書き込みのコピーを渡すことが出来た。
 1974年4月 帰国した私に小山一郎氏は、一穂さんの形見分け、として一穂手彫りの、アンモナイトを両面に彫った木彫印を下さった。この『極の誘い』の表紙には、印のアンモナイトが朱色で捺印されて在る。この木彫印は、何処にも展示される事無く、静かに今も大事に私が所持し、時折、取り出して見て、詩人 吉田一穂との会見を想い出している。
1987年一月一日より、 匡史(まさひと)改め大人(たいじん)に。


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2005/03/15

聲乃師ーガリーナ・ヴィシネフスカヤの偉大さ

聲乃師ーガリーナ・ヴィシネフスカヤの偉大さ

                     
                 朗唱家 天童 大人

 この記念写真を眺めていると昨年(1990年)7月、ソプラノ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカヤのマスタークラスを受講する為に、ザルツブルグで過した3週間の学生生活が、昨日の出来事のように鮮やかに蘇ってくる。まして初めての写真展の為に、大きく焼き伸ばした彼女の授業風景の姿を見ていると、私が何をしてきたのかが良くわかる。出発に「写真機を買って行ったらいい」と助言して下さったのは画家の村井正誠さん。今年86歳。23歳の時(昭和3年) 絵の勉強にパリ行った先達のひとり。「写真を沢山撮って帰ってきたら展覧会が出来ますよ。」とのこと。
 そんなものですかねと言いながらも、私の内部で何かが弾け飛んだらしい。早速、カメラを1台と35mm~105mmのズームを1本買って旅立った。マスタークラスのオーディションの事は他にも書いたので省略するが、午前3時間午後3時間の授業を3週間、1日も休まずに受講した。
 2週目の朝、気心も分かったので、ガリーナ教授に「貴女のことをエッセイに書きたい」、「貴女を写真に撮りたい」、「もし良い写真が撮れたら展覧会を開きたい」との問いに対して、全て答えは「よろしい」。
 早速、午前に1本撮り、午後の授業の時に、クラスメートに見せると、誰もが1枚の写真を見て、ガリーナに見せない方がいいよと言う。それは彼女の足を背後から撮った写真で、綺麗な足が写っている。教室の中で皆でワイワイ言いあっていると、ガリーナが入ってきて、その写真を見ると、片目を閉じて「お前は盗み撮りをしたね」とシヤッターを押す真似をした。てっきり私が怒られると思った友人たちはホッとした表情で各自の席に戻った。しかし、その後ガリーナは、決して足を見せず、黒や緑色のパンタロンスーツで過すのだった。21人の生徒の中で、日本人は私ひとりだった。それ以後、ガリーナは自由に、存分に撮らせてくれた。それが私にはとても有難かった。
 モーツアルティームのマスタークラスに学んで音楽家になるのは数多いだろうが、写真家になったのは世界中で私だけだろう。そして村井さんが予言した通り、初めての写真展「聲乃師ーガリーナ・ヴィシネフスカヤの素顔ー」が去る10月11日から16日まで東京のギャラリーフレスカで行われた。先達の助言のなんと正しかったことか。
 いまさらながら驚くばかりだ。


「ゆきのまち通信」(1991年10月号:青森)に写真3葉と共に掲載。 

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2005/03/14

詩人エズラ・パウンドに感謝を込めて

   詩人エズラ・パウンドに感謝を込めて


                     天童 大人

 やはり私は迷ってしまった。
 捜しても見つからない。どうしてだろうかと思うのだが、何故か一度でスンナリと辿り着けないのだ。訪れる度に季節が異って居る為、常に新しい風景に見えるのかも知れない。
 また入り口の外にある標示板の所まで戻り、改めて場所を確かめてから、再び入り口を入り左側から、ゆっくり、ひとつ一つ墓石を見ながら歩みを進めた。かって訪れた時の記憶は何ひとつ当てには出来ない。
 やっとのことで緑草に包まれ、EZRA POVNDとのみ羅典語で刻まれている墓石を見つけた。(これはアメリカの女流彫刻家Joan Fitzgerald のデザインとか、)
 四年振りの墓参りである。
 幸い辺りには、早朝のためか、人の気配がこの場には全く感じられない。
 東京から、ミラノ、ローザンヌ、パリ、フィレンツェ、ヴェネチァと持ち歩いて来た一冊の書物を墓石の上に置いた。
 昨年(1995年)11月1日、エズラ・パウンドの23回忌を記念して、14年振りに出版した第二詩集『エズラ・パウンドの碧い指環』(北十字舎刊・白鳳社発売)である。
 この詩集の裏表紙には、装幀の吉野史門氏に頼んで、かって私自身が撮影した、このパウンドの墓石の写真を用いているのだ。
 今、こうして写真の墓石と本物とを同時に眺めながら、この詩集の旅立ちに齎したパウンドの力を感じた。
 それは昨年の秋に出会った詩人藤富保男氏に教えていただいた、パウンドの娘で、北イタリアのメラノに住んでいるメアリ・ド・ラシェヴィルツ夫人に、この詩集を贈った。それが全くの偶然か必然なのか、10月30日、彼女の手元に着いたと言う。その日はエズラ・パウンドの誕生日だった。
 東洋の未知の詩人から届いた、裏表紙に、父親の墓石の写真が用いられている美しい詩集に深い感銘を受け夫人が、藤富氏に「1917年のメラノで開催されるパウンド学会で、天童さんに『パウンドの指環』を読んでくれるように、伝えてくださいよ」と書き送ってきた。
 こんな幸運な出来事など、いくら計算しても答えは簡単に出てこないだろう。そして同時期にミラノの友人の画家KEIZO(森下慶三)と詩人のロベルト・サネージ宛の本はまだ着いていなかったのだから。
 遠くから幽かな人の聲が聞こえてきた。しかし、だれも姿を現さないのを幸いに、墓石に置いた詩集を手に取り、頁を開いた。
 「エズラ・パウンドの指環」が目に飛び込んできた。
 パウンドの聞き慣れた力強い聲が、私の内側から響いてきて、促されるようにして、私は聲を出していた。
 誰にも邪魔される事無くもなく読み続けた。そしてパウンドの墓前にて、自作のエッセイ「パウンドの墓」を読んでみたいとは考えたが、こんなに早く実現出来るとは思ってもみなかった。聲はでた。
 "場ノ力”が加わって思うように響く。

 4日前、フィレンツェの宿から日本の藤富保男氏に電話して、パウンドの妻、オルガが3月15日、101歳で亡くなったことを初めて知った。この墓地の何処かに、パウンド夫人の遺体が安置されている筈だった。

 体がじっくり汗ばんできた。
 3日前、ルッカ市の古代劇場跡で、久方振りに会った友人たちに勧められて、聲を出したからかも知れない。

 「パウンドの行き先はイタリーアルプスのメラノの近くの城、ブルネンブルグ城であったし、そこにはかれの娘のメアリーが夫のボリス・ド・ラシェヴェルツ公や二人の子供といっしょに住んでいた。ラシェヴェルツ公は有名なエジプト学者なので、おもにエジプトの美術品がたくさん飾られていたし、また一室にはゴーディエ・ブルゼスカの彫刻がたくさんあったし、またあちこちの壁にはピカソやブランクジの絵がかけられ、日本の悲壮な能面もあり、書棚にはパウンド宛の署名されたジョイスやイエーツやオールディントンやエィチ・ディやエリオットやマリアン・ムアなどの初期の書物や、パウンド自身の初版本が並んでいた。」『上田保著作集』 「エズラ・パウンドと第二次大戦」より(原文のまま)

 ブランクーシやピカソの絵も見てみたい。しかし、もっとも見たいのは私とパウンドを結びつけた若き天才彫刻家ゴーディエ・ジャレスカの彫刻作品だ。
 その切っ掛けを作ってくれたのは、先頃、亡くなった英文学者金関寿夫氏の著作『ナヴァホの砂絵』だった。私を”天才”発見に駆り立てた重要な書物だ。

 そして、ついに、一冊の書物から、一人の”天才”を発見した。若き天才彫刻家Yves DANAである。
 もしエズラ・パウンドが、"天才”を発見したことを知らなかったら、私も無謀な野望を抱かなかったであろう。
 偉大な詩人が先達に居てくれたことを、深く感謝する。

    詩誌「VOZA」4号 1996年9月1日刊(帯広市)に掲載。

  天童大人詩集『エズラ・パウンドの碧い指環』
  (北十字舎刊:白鳳社発売)限定970部
   毛筆サイン・雅号印入り。定価3605円

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