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2005/04/23

彫刻家・ブランクーシの旅

      パリでの出会いに誘われて・・・         

     野外彫刻の魅力


                         詩人 天童 大人

 5月30日(1992年)の午後、ルーマニアの古都、シナイアの修道院で行われたシカゴ在住で友人のアーティスト、ギョクチョ・由美子氏の息子の結婚式に出席した。日本人は由美子女史と、友人で鎌倉・小町通りでイタリア料理店を経営しているH女史と、大森でカメラ店を経営しているH氏と私の4人である。
 午後6時から始まった披露宴は、音楽が入り、歌や踊りと延々と8時間余り続き、宿舎として借り切っているビラに戻ったのは午前3時。花嫁の兄に、彫刻家・ブランクーシの野外彫刻作品を見たいので、前もって車の調達を依頼してあった。
 ここシナイアからトゥルグ・ジュまでどの位の距離が在るのか、見終わってからブカレストまで何キロで、何時間かかるのか全く分からない。ビザ申請の時、日本のルーマニア大使館で貰った地図でも良く分からなかった。観光案内書の何処にも「ブランクーシ」という文字は無く、日本で唯一のブランクーシに関する著作である中原佑介著『ブランクーシ』(美術出版社刊)から、必要な部分をコピーして持参した。
 この5月 イサム・ノグチ展の最終日の会場で、美術雑誌の編集長のS氏からも「ブランクーシを見てきたら?折角、ルーマニアまで行くのだから」と言われた時も、やはり行くべきか?と思った。
 彫刻作品がが好きな者なら、1度は自分の眼で、ブランクーシの野外彫刻「無限柱」、「接吻の門」、「沈黙の円卓」、「祝祭の円卓」等を見てみたいと考えるのではないだろうか。
 かってパリで生活していた時、近代美術館で、「ブランクーシの部屋」を見た時の鮮烈な印象が、今でも鮮やかに残っているから、今でも見たい、と言う強い情熱を支えているのかも知れない。
 最も迷惑だったのは写真仲間のH氏ではなかったか。ブランクーシが何者かも分からずに、連れて歩きまわされただけだったかもしれないから。
 しかし、世界中の多くの人々が、1度は自分の眼で見て、確かめたいと思っている物を、無理矢理見せられて、幸運と言うべきか、不運と言うべきか、後の事は本人次第だろう。日本人でも数える程の人々だけしか、実際に見て、触ってはいないのだ。


       1日掛かりのタクシーの旅

 長い披露宴の後で、体が疲労している筈なのに、なかなか寝付かれなかった。人の聲の気配で目覚めたのは8時を過ぎていた。旅行鞄に何時でも出発出来るように、礼服から洗面道具を詰め込み、ロビーに出た。
 「車は?」と問うまでもなく、「大丈夫だ」と言う。間もなく、結婚式の時にも動いていたタクシーがやって来た。中から地図を持った老人が出てきた。早速、道調べ、道選びから全走行距離と使用時間が計られる。
 約950キロ、12時間余り、ブカレスト市内の友人の家まで案内するという条件付きで、二つの旅行鞄と二人分のタクシー代は?最後にお教えしょう。
 H氏も渋々同意して、朝食抜きで挨拶もそこそこに、直ぐ出発した。すぐシナイアの市内を後にするのかと思うと、街中を巡り、一軒の家に案内された。コーヒーやビールを飲めと言う。一家揃って歓迎という訳だ。ともあれ老人と娘婿と二人が交互に運転して行くという。
 シナイア市内を出て30分位走った時、突然、車を止めた。自動車の上に付いている”TAXI”という電気灯を取り外し、トランクに仕舞い込んで、再び走り始めた。
 ルーマニアの中央部を横断して行く町々や村々の風景の中に、1度も目にした事の無い人間の顔も在った。そして6時間余り走り続けて、右側に「無限柱」をみつけ、慌てて車を止めて貰った。カメラを手に駆け出し写真を撮る。作品に手を触れてみる。誰がしたのだろうか、台座部分にナイフで刻んだのか落書きが在った。
 「祝祭の円卓」が近くに在る筈だが、何故か見付からない。近くの若者たちに尋ねようとしたが言葉が全く通じない。困ったと思った時、コピーの事を思い出した。「祝祭の円卓」の写真コピーを見せると指先で教えてくれた。そこには草ぐさに埋もれるように、ひっそりと「祝祭の円卓」が置かれて在った。再び若者たちに「接吻の門」と「沈黙の円卓」とのコピーを見せると、教会の方を指差した。再び車に乗り込み、市内の駐車場で1時間後に再会する約束で別れた。そして急いで「接吻の門」を探した。門の横に置かれてある、石で制作されたベンチにも腰を下ろしてみた。そして「沈黙の円卓」にもやはり座ってみた。無我夢中だった。そしてこれらブランクーシの彫刻群の中心である教会まで足を延ばしてみた。あっという間に1時間は経った。
 午後6時半、我々はブカレストめがけて出発した。1度だけ休息し、ブカレストに到着したのは午前1時。其処から彼らは帰る途中で、屋根の上に「TAXI」の看板を、再び取り付ける事だろう。
 1日がかりのタクシーの旅は無事に終わった。タクシー代は二人で180米ドル。この安さについて、私はもう言葉も出ない。有難う。

  公明新聞(日曜版,1992年10月25日)に、写真,ブランクーシ作品「無限柱」一葉と共に掲載、より         

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2005/04/20

イタリアの『テルツィーナ』叢書に寄せて

         志の高い書物


                    天童 大人


 昨年(1997年)から、イタリア・ミラノにある詩書と芸術関係の専門出版社・セヴェルニーニより、注目すべき叢書が刊行されている。
 叢署名は『TERZINA(テルツィーナ)』。素材には、イタリア・シシリー島の東岸シラクーサでエジプトに伝わるパピルスの技術を用いて制作された、30センチ×71センチサイズの手漉き紙を用い、三折りにして手造り製本。年二回、イタリアの著名な三人ずつの画家のサイン入りオリジナル版画作品によって限定120部制作される。
 30部は画家の分、30部は出版社の分、30部は世界の主な国公立の図書館に寄贈し、保存して貰う。残りの30部はこの企画に参加した画家同士の交換分で、他の全ての画家の作品を、各一部ずつ持つ事により、画家自身による作品の保管が行われ、かつ画家には金銭的な負担が一切ない。
 わが国の美術界や出版界少しでも触れた者なら、誰もが不意を衝かれた企画だと思うだろう。
 この国も、出雲、越前、土佐など手漉き紙の伝統があり、活版印刷技術もあり、詩人も画家も大勢いて、出版社も編集者も沢山いながら、世界に伝統的な技術の保存を呼びかけ、未知の画家同士をつなげて行く夢のある仕事が、いままで生まれなかったのは何故なのか? 
 ミラノの小出版社の二人の若者の志の高さと企画力と実行力と、そして想像力に遠く及ばないとは、日本の”文化国家”が聞いて呆れる。
 『テルツィーナ(傍観者・三ッ折り)』の命名者で、かってノーベル文学賞の候補者にもあげられ、画も描く詩人のロベルト・サネージがこの叢書の第一巻となった。第二巻はセルジオ・ダンジェロ、第三巻はフリオ・ル・パルク(1966年のヴェネチア・ヴェンナーレ大賞受賞者)、第四巻はKEIZOこと森下慶三、第五巻はマリオ・ロオゼェロ、第六巻はアントニオ・テルツイ。 この六冊は既に、東京の国立国会図書館に寄贈されているので、関心のある方には、是非、直接手にとって見て頂きたい。
 今年度上半期分は、第七巻にバレエリオ・アダミ、第八巻に天童 大人、第九巻にエンリコ・バイがそれぞれ刊行された。
 シリーズ中、黒白の「字」の作品は私の「黄道日」のみ。これも、友人でミラノ在住三十年余り、彫刻家マリーノ・マリーニ教室で学んだKEIZOから昨年9月、ミラノで「何か描いてみないか?」という一言と渡された二枚の手漉き紙から、この叢書の存在を知ったのだった。また、高名な画家バレリオ・アダミとエンリコ・バイとに挟まれて、刊行される事が分かったのは、今年四月下旬、番号入れと雅号印を捺しにミラノに行き、初めてセヴェルニーニの経営者、ロベルトとマッシモとの二人に会った時だった。
 決して経営状態が良いとはいえない状況下で『TERZINA』を世界に送り出している事を知った時、真のイタリア文化の懐の奥深さと受容力と、未知の文化と人とに対する心配りを肌身に感じた。と同時に、建前と本音とを使い分け、幻想と現実とを見誤り続けてきたわが国の姿を、私は垣間見た。


      (てんどう・たいじん=詩人・朗唱家・字家)

       東京新聞 1997年8月21日号 掲載より。


追記 文中の画家KEIZOこと森下 慶三氏は 2003年4月5日 
     ミラノで不慮の事故の為、死去。59歳。
     エンリコ・バイ氏は2003年6月15日 死去。75歳。
     ロベルト・サネージ氏は2001年1月 肺ガンの為、死去。71歳。
     

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