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2005/05/14

ガリーナ・ヴィシネフスカヤの聲の記憶

       ガリーナの聲の記憶


                     天童 大人

 不出世のオペラ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカヤに一度だけレッスンを受けたい、また私の行っている「即興朗唱」を聞かせて、どんな反応があるのか知りたいと、長い間考え続けていたことが、今、まさに実現しようとしている。ここザルツブルグにあるモーツアルテイム音楽院の二階の薄暗い扉の前で、私は立ち止まり、もう一度名札を確かめてみた。
 マダム・プロフェサー・ガリーナ・ヴィシネフスカヤ。
 もう間違いなかった。二重になっている奥の扉を開けると、すでに教室は多くの人々で埋まっていた。濃い緑色のパンタロン・スーツを着、胸に大きな金の首飾りをした教授が既に座っていた。私は空いている椅子のひとつに座り、回りを見渡した。男性は三人、女性は二十二人居た。そして私はガリーナ・ヴィシネフスカヤ教授の顔をじっくり眺めた。実にいい顔をしているのに驚くと同時に本当に安心した。というのも今年(1990年)の一月三十一日、東京のアメリカ大使公邸で、出会ったときの彼女の浮腫んだ表情とは余りにも違うからだ。目の前にいるガリーナの表情であったなら、私は何も行くか、行かないかなどと躊躇などしなかった筈だ。
 舞台に立つ人間に限らず、存在感のない人間は駄目なのだ。詩の朗読会でも、詩が良ければ、詩がいいからと良く言われるが、舞台に立っている姿を見て、余りにも存在感が無い詩人たちが多いのに驚く。恐らく言葉をただの道具として扱ってきたからではないのか?そして「聲」が出ない。書いて印刷された作品を読めば、朗読になると思っている輩があまりにも多い。他人の船にはすぐ乗るが、自分で船を漕ぐ詩人が余りにも少なすぎると言うのがここ十年余り、詩の朗読・朗唱に深く関わってきた一人として、偽らざる感想だ。
 
 背後の扉が開いたので、自分自身に戻った。遅れてひとりの女子学生が入ってきた。日本人は私の他に居るのだろうか?見分けがつかなかったが会話から韓国人だと分かった。私は自分が一番最後だろうと勝手に決めていたから、突然、「テンドウ」と呼ばれた時は慌てた。拙い英語で、自分が行なうことを伝えようとしたが、上手くいかない。聲の種類は、テノール? バリトン? と問われても、私は一度も考えた事が無かったから、答えようが無かった。業を煮やしたガリーナが、やってご覧と言う。私も用意してきた拍子木とチョンマイを袋から取り出し、ピアノの前に蹲り跪いた。
 ア・・・ア・・・という聲が回りから上がった。
 かまわず柝の頭を出した。いつもの「即興朗唱」と同じだ。
「阿阿阿阿阿・・・・・・・」という一番細い聲から発し始めた。どのくらい聲を出したであろうか、最後に拍子木をひとつ鳴らして終えると教室中が拍手で埋まった。
 私も念願を果たしたと思った。「日本人だね。」、「私は非常に興味を持っている。」、「私はそれは好きだよ。」   それだけガリーナ・ヴィシネフスカヤに言われれば、もう私にとっては充分である。だからその後に「しかし、貴方は何を欲しているのか」と問われた時、咄嗟に言葉が出てこない。結局、結論は全員のオーデションが終わるまで待たされる事になった。
 後で知ったことだが、生徒はアメリカから二人、南アフリカ、フィンランド、西ドイツ、フランス、日本、各一人、韓国七人の計十四人、それらの学生が最後までガリーナの授業を受けたのだった。
 私は初めから、オーデションを受ければ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤに、「即興朗唱」を聞いてもらえると考えていた。だから目的を果たせばパッシヴに変えようと考えていた。しかし、教授はアクティブのオーデションを受けたのだから、当然、歌を唄うのだろうと思ったようだ。全員を退出させ、専属のピアニストのポリスに音を出させ、私に聲を出せと命じた。正規の音楽教育を受けた事の無い悲しさか、声が裏声(フォルセット)になったまま、どうしてもいつもの地声がまるきり出てこない。緊張の糸がプツリと切れたらしい。緊張すればするほど聲が出るのに、頭の中
が真白くなって何も出てこない。結局、教授は私に歌わせることを諦めた。
 翌朝(7月17日)から午前3時間、午後3時間のマスタークラスの授業(3週間)が始まった。私は授業を一刻たりとも休まなかった。だから誰よりも彼女の聲を聞いた筈だ。学生たちに自ら聲を発し、軆を触らせて、見せる手本が目の前に在った。都合百三十時間余り、彼女の聲を徹低的に聞いた。学ぶべき多くの事は学び取った。

 一週間経ち、ガリーナ教授の気性も分かったので「貴女の写真を撮りたい」と言うと許可してくれた。「もし、良い写真だったら、日本で写真展もやりたい」という希望も許可してくれた。翌日から、買ったばかりのニコン・F810で授業風景を撮り始めた。そして一本目をすぐ現像して彼女に見せた。一枚、彼女の綺麗な足だけの写真があり、仲間達に、怒られるよと言われたが、彼女に見せると、笑いながら、「やったね」と言って片目をつぶった。
 しかし、翌日から彼女は講習が終わるまでパンタロン・スーツで押し通してしまった。
 三週目に入った月曜日の朝、学生たちは遅れて、ガリーナと二人きりだった。
 「貴方は毎日、いつも一番に居るね。来週からイギリスで二週間、授業があるけど一緒に行かないか」と彼女に突然言われた。私にもすでに予定があり、残念ながら無理だったのだが、何故、私に言われたのか分からない。パッシヴの学生で三週間、百三十時間余り、一度も欠かさずにガリーナの授業を聞いた学生は、テンドウさんの他には居ないだろう、と他のクラスで出会った名古屋在住の声楽家谷上節子女史は言う。

 授業の最終日に、今秋から文化庁の海外在外研修員として、モーツアルテイムで引き続きピアノを勉強する米川幸余嬢がクラスを見学に来て、私が好き勝手に授業中に撮影するのを見て、「信じられない」と絶句した。
 今夏、ガリーナのマスタークラスを受講する事について適切な助言を与えてくださった画家の村井正誠氏や、英文学者の壽岳文章先生、人類学者の西江雅之先生、私の聲を「ユニヴァーサル・ヴォイス(宇宙の聲)」と名付けてくださり、またガリーナに推薦状を書いてくださったワシントンD・Cにあるケネディセンターの副館長のジュリアン・プール女史、そして多くの友人たちにも。
 最後に私の願望を叶える機会を与えて下さっただけではなく、「聲」について実に多くの事を教えてくださった私の新しい先生、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ教授に感謝したい。
 本当に有難う御座いました。

     「文学界」(1990年)12月号、掲載より。(部分補筆、訂正アリ)

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