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2005/01/15

セネガル・第三回ダカール国際詩祭。

 第三回 ダカール国際詩祭に参加して。

                           詩人・朗唱家・字家

                             天童 大人

 アフリカ・セネガルに行くことになるとは夢にも思わなかった。八
月のある朝、突然、コンゴ出身の詩人カマ・カマンダ氏から電話が
あった。彼とは三年前、第七回メデジン国際詩祭で初めて出会い
、二年前には、東京日仏会館で行われえた彼の講演会「アフリカ
語圏の語り物から詩まで」で、突然の指名で、彼の詩二編を朗読
した。
その後、彼が来日する度に会い、今回も友人の美術館長と共に
金沢から昨夜戻り、明日、ルクセンブルクに帰る束の間に電話を
くれたのだ。
「十一月十三日から十八日まで第二回ダカール国際詩祭がある。
主催者のサジ氏に直接手紙を書いてごらん。私からも連絡しておく
から」と、新宿のホテルの喫茶室で、昨年パリとダカールとのアフリ
カ協会から共同出版された分厚い全詩集にサインをしながら連絡
先を教えてくれた。
 私は九月下旬、キューバに向けて出発した。マタンサス大学主催
「即興詩人インディオ・ナボリ国際集会2000」の招待に、国際交流
基金の助成を受け、同大学のギャラリーで、私の字と写真との個
展を行うためだ。
 約二週間後、ハバナにも立ち寄らず、帰国するとセネガルから招
待状が届いていた。
十一月初旬、東京で行われた世界詩人祭に招待されて来日したカ
マンダに、翻訳家で友人のK氏を紹介するため、一緒に街で食事
をした。その後、私はミラノに向かい、東京の詩祭で詩祭で出会っ
たパオロ・ディガシィと再会した。
二日後、パリ経由でダカールに向かった。税関はその国の国情を
すべて物語る。ダカール空港の税関は最悪だったが、幸いサジ氏
の助手ニドウニ氏が出迎えてくれたので、最小の被害ですんだ。
空港からホテルに向かう途中、闇の中、路上に蹲っている多くの人
々や、魚の腐臭が漂う木造の小屋が立ち並ぶ界隈を通り抜け波
打ち際にある、ホテル「黄金の帆船」に着いた。すでにケベックの
女流画家のディオンヌが居た。私は詩祭のプログラムを初めて見
て驚いた。ディオンヌとナショナル・ギャラリーで二人展を行う事が
記されてあった。私は、サジ氏への御礼のため、自作の額入れリ
トグラフ一点しか持参していなかったからだ。

その夜から蚊との戦いが始まった。
フェステバルの初日は、夕方、詩人センゴール財団。内庭でのセレ
モニーから始まった。入り口で渡された紙には、詩がフランス語で
一編印刷されており、参加した詩人三十人余り全員が紹介も兼ね
て順々に呼び出され、壇上で読むという初めての試みだった。続々
と何処から出てきたかと思うほど、原色と黄金で着飾った美しい女
性の中に、カマを含め三年前のメデジン国際詩祭で出会ったフラン
ス、ポルトガル、アフリカの五人の詩人と思いがけず再会し、お互
いに喜んだ。
二日目の朝、ディオンヌと二人で市内のナショナル・ギャラリーに向
かった。大きな壁面の会場ではあったが、作品はすべて針金で吊
るさなければならない。彼女に頼まれ、作品の展示を手伝った。
私も版画作品を一点での展示を決めた。
三日目の午後、テレビカメラも入り、盛大に展覧会のオープニング
セレモニーが行われた。夜は船で三十分余り、かって監獄の在っ
たゴリ島でのフランスの役者たちによる詩劇の鑑賞会だった。
四日目、交通事情の悪いダカールで、詩人たちが数グループに分
かれ、高校にバスに乗って詩を語りに行く。
私も自作詩「聲神医」を読むと、タタラ・トモド・オトド・のリフレインに
全員が笑う。学生たちはコミックだと言う。日本・キューバとも違う
反応に驚いた。
夜は国立劇場で関係者と招待者だけの詩劇の観劇だった。
五日目、朝から全員バスに乗って向かったのは大きな学校だっ
た。幼稚園から高校まで四十八ヵ国三千八百人の生徒が隊列を
つくり、旗を振りながら「詩人」たちを迎えてくれるのだ。小学校、
中学校、高校と道を歩き回ると、それぞれ歓迎の催事が用意さ
れていた。秩序をほとんど感じないダカールで、整然と統一した
歓迎に違和感を感じたのは私だけではなかった。
夜、大統領宮に招かれ、七ヶ月前、大統領になったアブキライ・ワ
ッド大統領に、参加詩人全員が謁見した。こうした扱いは、恐らく日
本とは違い、「詩人」の評価が高いためなのだろう。この異形の眼
光鋭い人物が、今後どのような舵取りをするのか深い関心が湧く。
帰国後、サジ氏からEメールが届いた。
「ダカールで私たちにとって貴方の参加は大変心を打たれました。
我々は貴方がここに来た事を長い間思い出すでしょう。
貴方の美しい国民の文化が表すように、貴方たちは、我々にとって
親切と礼儀との手本でありました。連絡を取り合いましょう」。
ついにアフリカとの回路がひらかれた。

公明新聞(2000年12月22日)掲載より
(てんどう たいじん)

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2005/01/13

肉声

 十三年前、パリに住んでいたころ、ご主人でチェリストのロストロ
ポーヴィチ氏のピアノで歌うソプラノ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカ
ヤの肉声を初めて耳にした。その瞬間、私は一度でいいからこの
人のレッスンを受けてみたいと思った。
朗唱家として、人にレッスンを受けたいと思った唯一の人が彼女だ
った。
以来、彼女の声の質と声の力のことをいつも頭のすみに置きなが
ら過ごしてきた。
三年前、東京・銀座の画廊で「天童大人即興朗唱の世界」という
会を開いた。
その時、二次会まで来て私の声を「宇宙の声(ユニバーサル・ボイ
ス)」と名付けてくれたのはワシントンにあるケネディ・センターのジ
ュリアン・プール女史だった。
 その彼女が来日する事を知り、ことしの一月三十一日、雪の中、
招かれて歓迎パーティーに出かけ、旧交を温めた。
その時、思いがけずロストロポーヴィチ氏の姿をみかけた。もしや
と思いヴィシネフスカヤ夫人は一緒ではないかと傍らの人にたず
ねてみると、居るという。
 奇遇だった。意を決して私は「あなたのレッスンを受けたい」と話
すと、七月にザルツブルグ・フェステバルで開くマスター・クラスに
参加すればいいという。
私は詩人で、声でお金はとってはいるが歌手ではない、といっても
「七月にザルツブルグへ来い」であった。
私の「即興朗唱」についてのアドバイザーで、書家ならぬ「字家」
仲間の画家、村井正誠さんや私の「字」を最初に認めて下さった
英文学者の寿岳文章先生に相談すると、二人とも、滅多にない機
会だからいった方が良いといわれた。
ことしの七月十六日からヴィシネフスカヤのマスタークラスに参加
した。二十一人の生徒がいたが、日本人は私一人だった。
オーディションが始まり、私はいつものように「即興朗唱」を行った。
終わると教室のみんなからの温かい拍手に包まれた。
ついに念願を果たしたことを実感、感無量だった。

                   てんどう・たいじん=朗唱家・詩人

        日本経済新聞 「交遊抄」より(1990年9月1日号掲載

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2005/01/12

イタリア・ヴェローナのアレーナに聲を刻む

イタリア・ヴェローナ・春の詩祭

 突然、二月四日、一通のFAXがイタリア・ヴェローナ文学者協会
から送られてきた。
それはヴェローナ市・記念物・美術館部門のアレーナ(野外劇場)
使用の正式許可証だった。ついにグロリアはやったのだった。
昨年十一月、ミラノ在住の友人で画家のKEIZO(森下慶三)の家
で、初対面のヴェローナ文学者協会の秘書グロリア・リヴォルタ女
史から、三月二十一日「春の詩祭ーオマージュ、ロベルト・サネー
ジ」を開催し、シンポウジウムを行うので、開会の辞の変わりに、
「聲」を贈って貰いたいと言われた。
昨年一月、肺がんの為七十一歳で亡くなったノーベル文学賞候補
詩人ロベルト・サネージに、私は恩義があった。
私が本誌に彼を紹介したのは二度、「『余白』の詩人ロベルト・サネ
ージ展」(九二年八月号)と「詩人ロベルト・サネージーオリジナル
作品限定本『TERZINA』」(九七年七月号)。
特に『TERZINA』叢書は彼が命名し、第一巻を飾り、イタリアの著
名な画家たち、アダミ、バイ、KEIZO,ムナリー等に並んで、私の
字作品「黄道日」が、四年前、異国でデビュー出来たのも、ブレラ
国立美術学校の教授でもあったサネージと、かってブレラで彫刻
家マリーノ・マリーニの教室で学んだKEIZOとの友情。
訪れたKEIZOのアトリエにあった二枚の紙。グロリアの口から生
前、サネージは、ヴェローナと日本とで「カリグラフィ展」を開催した
い希望を持っていたことを知り、驚いた。
四年前から、春になると、サネージから招待届いていた「ヴェロー
ナ・春の詩祭」。予算がないが、いつか呼ぶからとKEIZOに伝言
を託していたサネージ。思い出すと切りが無い。
 正式な許可証を手にして、初めて、ひとりでアレーナに聲を刻め
ることが実感出来た。
 追ってグロリアから、自分の好きな時間だけ、アレーナを使用し
て良い事。至急、世界に向けて、メッセージを送れと言って来た。
すぐ「ーこの美しい水の惑星へ、聲の贈り物ー」を書き、友人のウ
ェストポイントアートオフィスの協力で、ヴェローナに送った。
二千年の歴史に耐えたアレーナと、産まれ出る春と、そして詩人
ロベルト・サネージとの三つのオマージュを込めて、聲をアレーナ
に奉納する。
地と刻と人とが一瞬、交わった刻、二00三年三月二十一日、正午
(イタリア時間)イタリア・ヴェローナのアレーナ、かって皇帝が立っ
た場所に、背後に聴衆を従えて立ち、夏のオペラの舞台設営中の
中心めがけ、スウィング・ボウルを鳴らし始め、聲を打ち出した。
アレーナに響く、自分の聲の残響音を聞きながら、聲を刻み続けて
三十六年、今日から新しい肉聲の時代が始まることを予感した。
思いっ切り聲を出した四十五分間、グロリア・リヴォルタ女史の献
身的な熱意と行動力と、そして詩人ロベルト・サネージの見えない
力とが一体となって実現したアレーナの公式記録に残る単独公演。
一枚の入場パスが全てを物語っている。

         Societa Letteraria di Verona
Arena di Verona 21-03-2002
Taijin Tendo


『現代詩手帖』(2002年6月号)掲載より。

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私のわび・さび TERZINA-イタリア・書物のわび

                                        字家 天童 大人

僥倖は不意に訪れるものなのか?

一昨年の九月、イタリア。ミラノで、何か好きな字を書いてみないか
と、気軽に二枚の紙を手渡してくれたのは画家KEIZO(森下慶三)。
ミラノ在住35年、私の第一詩集『玄象の世界』(1981年刊)を装っ
てくれた親友だ。黙って見せてくれたのは、彼のオリジナル版画作
品が三つ折にされた瀟洒な一冊の書物。
日本ではもはや見ることももできないシンプルさだ。
若いミラノの出版人、ロベルト・セルヴェニーニが身銭を切って刊行
を続けている”TERZINA”叢書。限定120部、うち30部は世界の
国公立図書館に寄贈、30部は作家分、30部は出版社分、残りの
30部は作家同士の交換分で、作家には一切の金銭的負担をかけ
ない。この心意気は、残念ながら今の日本の文化の分野には全く
見当たらないのだ。
第四巻のKEIZOの本を見ながら『書物の世界』の著者壽岳文章
先生のことを想い出した。

1983年春、アメリカ・シアトルの桜祭りでの朗唱公演を終えて帰
国した私は、京都の向日居を訪れた。対座しながら不意に壽岳
先生が、「テンドウさん、貴方の字は何と言われますか」。
咄嗟に「売れています」と答えてしまい、ショマッタと思った。すると
「そうでしょう、貴方の字はいい字です」。
一瞬、我が耳を疑った。”いい字”だとは、未だかって誰からも言わ
れたことがなかったからだ。
慈雲が大好きな先生の謦咳に接しただけで満足なのに、「字」を褒
められ、そのうえ、ひと聲と「聲」まで所望されたのだ。
私は白昼堂々と向日居で、ひと聲吠えた。
先生は空海の『聲字實相義』のなかに「聲ニ實相アリ」という言葉
があることを教示され、三輪山の頂きから聲を出したらとも勧めら
れた。
門の外まで、足の不自由な先生に見送られ、本当に嬉しくて嬉しく
て仕方がなかった。
帰京後、私は「字」と「聲」とに本格的に取り組み始めた。
壽岳先生のひとことと、KEIZOの好意とが重なり合って、TERZIN
A叢書のための「字」作品は、「黄道日」と造語した。
それを、古代パピルスの技法で、シシリー島の東岸シラクーサで漉
かれた紙に書き、ミラノに送った。

昨年五月、刷り上った自作に番号と落款を捺すためミラノに向かった。
ロベルト。・セヴェルニーニに初めて会い、イタリアの高名な画家た
ちに混じって、私の「字」作品が第八巻として刊行されることを告げ
られ、夢のような話に吃驚した。さらに、彼が叢書のすべての装
丁と造本とを、独りで手掛けていることを知った。
ミラノのお金はなくても書物に向かう若い出版人の真摯な姿勢、
そこから産み出された「作品」の、私は、日本では失われたわび・
さびが息づいているのを感じた。
こうしたイタリア文化の奥深さを垣間見るにつき、均一化された
民度の低い人間を大量生産し続けて省みることのない島国の姿に
は、慄然とせざるをえない。

                   月刊『なごみ』(1998年5月号)より

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