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2005/05/26

戸川エマ 遺影に使って・・・・・と言って

文化学院・文科科長 戸川エマ先生  遺影に使って・・・と言って


                          天童 大人


 厳寒期の冬の北海道を聲を発しながら巡る「北ノ朗唱」を吉増剛造氏を誘い、始めて今年(1987年)で五年目になる。
 今年は二月十九日の函館から石狩、稚内、置戸、釧路、帯広と三月三日までの十三日間、吉増剛造、高橋睦郎、白石かずこ、平出隆、安西均、新藤涼子、八木忠栄氏らと道内の詩人たちと共に巡りながら東京に戻って来た。留守中に届いた郵便物の中の一通に、東京・お茶の水に在る文化学院同窓会から、「戸川エマ先生の思い出について書け」との依頼状を見つけた。
 すぐ思い浮かんだのは、昨年の二月か三月に、文化学院の二階にある教員室で、私がエマ先生を撮った一枚の写真の事だった。捜し始めたが、ネガも写真も何処にも無かった。学院の図書館にある同窓会の係りに、締切日を訊ねると、原稿が集まらないのでごゆっくりで、との事。安心して日々の仕事に埋没して原稿の事はすっかり忘れていた。
 そうしたら、突然、というか突如、田上千鶴子氏より葉書が舞い込み、「天童大人ーに今度はなられた相ですが、それ以上大きくなってどうするのですか。いつぞやお願いした原稿、お待ちしていますので是非御願いします。内容は何でも、長さも何でも結構ですからよろしく。清島君も痛快な一文を書いてくれました。写真や絵画や詩もあって面白いものになり相です。ではどうぞ。」(原文のママ)とある。
 またまた捜し始めた写真だがどうしても見付からない。そうこうしている内に、かっての同級生の松下信子女史が、毎年、恒例の年一度のパリから帰国した。彼女とは何故か帰って来ると、必ず一緒にエマ先生と食事をご馳走になる。(どうしてこの会合が持たれる様に為ったのか分からないが)昨年も松下女史のパリへの帰国間際の五月末日、新宿の中村屋で待合わせをして、小田急ハルクの地下にあるレストラン街で、加賀料理をエマ先生にご馳走になった事を、昨日の出来事のように思い出すことが出来る。

 ところで写真は四枚焼いて、一枚をエマ先生、一枚を中村さん?一枚を松下女史、そして私と持っていた。その写真を昨年の三月の或る日、学院に届ける積りで訊ねたところ、戸川先生は写真を手に取りながら、「あまり元気がないわね。でも遺影に使って、最後の写真だから。」とさりげなく、あまりにもさりげなく言われるものだから、「なんですか、先生、縁起でもない。」と口に出して言いながらも、もしかしたら御自分では?とも思って、その場で話を打ち切った。
 1966年に卒業したのだから、もう4分の一世紀余り、エマ先生や、事務職の中村悦子さん(この人は、我々が入学した年に、文科を卒業して学院の事務職に勤めた人。この人の勤労ニ十周年記念を六六年度の卒業生を中心にしてやってあげようとのエマ先生との約束も遂に果たせませんでした。中村さん、ゴメンナサイ。)加藤守雄先生、田上千鶴子女史等、書くことは沢山あって書ききれない位です。

 六三年入学の文科の学生は百十名余り、男性10名、女性100名と言う、ともかく元気の良い、恐らく文化学院の黄金時代(第三期?)を担っていました。日劇のダンサーの女性や俳優の娘等、様々な学生がいました。
エマ先生は勿論の事、田上、中村両女史にとっても、決して忘れ去る事の出来ない学生たちでしょう。

 我々の卒業謝恩会は、赤坂日枝神社の脇に在った東京ヒルトンの菊の間でした。各自が勝手な事をやりましたが、私にとってはその時に行った事が、今の道を歩み始める第一歩に為る出来事だったとは夢にも思いませんでした。フラメンコギターラに為ろうとしていた白土征彦と、トイレで簡単な音合わせをしただけで、舞台に出て、彼の弾くギターの音に打ちつけるように詩を朗唱し、即興朗唱でも一編行いました。この時の聲が十数年経っても聲の記憶として、残っている事を後日、加藤守雄先生の話から知り、驚いた事を思い出しました。
 今、こうして書いている三週間前に、白土氏が大阪に住んで居る事を知り、十数年振りに、電話で話をしました。全く何が幸いするのか分かったもんではありません。学院時代に始めた同人誌「第二次 文学共和国」のメンバーも皆、健在で、年内にでも桂芳久氏を囲んで集うという計画もあります。
 ともかく、生徒の面倒見も良く、口喧しく叱っていた戸川エマさんは、文化学院のシンボルでしたから出来る限り長生きして頂きたいと願っていながら、あまりにもあっけなく亡くなられた事に驚くだけでした。
 亡くなる前日、六月ニ八日(土)、文化学院画廊では、第三回カリグラフィ展の初日でした。二年振りに行われたこの展覧会も、村井正誠さん、西村八知さん、大島龍との四人で始まり、会を追うごとに盛況になり、拡がりを持って来ていました。この時の作品をエマ先生に見ていただきたかった、と今では思います。

 ところで”ゴネ松”という私のあだ名は、中村さんか田上女史かが付けられた様ですが、それには理路整然とした理由が様々な場合に、きちんと在るのです。
 入学試験で英語の試験の時、和服姿の試験官が、教室を行き交いながら、甲高い声で注意し続けるので、「ウルサイ!出て行け!」と怒鳴りつけました。コソコソと教室から出て行ったのが、Aと言う高等科の女性教師でした。その後の、面接試験では、猿人が洋服を着ていると思われる人と和服姿の美人でいい女が並んで座っていました。それが宗教学の仁戸田六三郎先生と戸川エマ先生との初対面でした。その話し方といい、判断の素早さに、なんたって美しい人でしたから。その後の事は、余りにも沢山ありますから、今回は省略します。

 卒業式の当日、校長から各自が受け取る筈の卒業証書を、校長から受取る事は拒否しました。講堂は騒然と為りました。そこで校長は、貴方はエマ先生が好きだからと言って、卒業証書をエマ先生に渡し、エマ先生から受取る事になりました。授業料値上げに関する回答が、校長から得られないままの状態では当然、校長からなどから受取れないのです。式の終了後、新しい校舎の前で、記念写真を撮る時、仁戸田六三郎先生に、「お前が一番文化学院の学生らしい」と言われました。
 その後、各地で卒業証書ボイコットが起こりましたが、お前が走りだ、と桂芳久氏に言われました。
 入学一年目の学院は美しい建物でした。二年目から内庭、旧校舎が取り壊され、今の講堂の二階もベニヤ板で仕切って教室になり、今の事務室も教室に、庭も、遊び場も無く、すしずめの状態での学費値上げですから、怒り心頭に為るのは当たり前です。この騒ぎで卒業生で評論家の松尾邦之助氏も心配になったのか話を聞きに来られました。

 文化学院は一流大学並みの授業料を取っていましたが、講師の招聘や就職の斡旋を出来るほどの人脈を、学院創立者西村一族には、殆ど持っていませんでした。我々は、エマ先生に、お願いして、あの人の話を聞きたい、こんな授業を受けたいと、お願いをすると、どんな魔術を使われたか分かりませんが、必ずと言って良いほど聞くことが出来、授業を受ける事が出来ました。
 知的センスの良い、独特の嗅覚を持った人で、世間で有名に為る前に聲を掛けられて、学院に招聘して下さいました。この事は幾らエマ先生に感謝しても、我々は感謝し切れません。
 感性豊かな時代の我々には、とても有り難い、大事なことでした。

 ともあれ、戸川エマ先生には個人的に色々とお世話に為りました。
 八十四年一月に行われた私の第一詩集『玄象の世界』(永井出版企画刊)の出版記念会でも、ご挨拶をして下さいましたし、八十一年十ニ月に日本ペンクラブに入会した時の初めての例会にも出てくださいました。
 しかし、何と言っても残念な事は、八十三年二月十日、帯広から発した連作即興朗唱『大神・キッキ・マニトウ』を、何故か一度も聞いて頂かなかったことです。この六月一日現在で、四十一篇、北海道から金沢、対馬、鹿児島、シアトル、ニューヨークと聲を発し続けた肉声による表現である即興朗唱を、新しい表現芸術の一分野として、現代芸術の最先端に位置させるべく、日夜、聲・コトバ・唱と肉体・空間とせめぎあいの中で、一度は耳の記憶、声の記憶として、聞いて頂きたかったと思います。
 昨年三月、一年後輩で現在、スペイン・サンタンーデルに住んで居る山内雅子、そして小島素子(上智大卒)との三人による共訳で、『ロルカ・ダリ』(六興出版刊)をエマ先生にお渡し出来て、良かったです。

 「遺影に」と言われた写真を捜す事は諦めませんので、出てきた折には、ぜひ、本誌でご紹介下さい。
 ではエマ先生。夏の札幌で、朗唱を行う為に旅立ちます。

 聲は出る限り発しますよ、エマ先生!
  

               てんどう・たいじん  1966年文科卒。詩人・朗唱家。彼の一進一退は詩と音楽との新しい結合を創出する超絶パフォーマンス とでも称すべきか?


    「おだまき草 第一集 」 (1987年12月25日 文化学院同窓会 発行)に掲載に。訂正、補筆する。

追記:評論家で文化学院文科科長・戸川エマ先生は1986年6月29日歿 75歳
    作家桂芳久氏は2005年2月1日歿 75歳
    戸川エマ先生の依頼で、1970年4月から、文化学院文科の桂ゼミの助手を1971年1月まで務める。  
   即興朗唱詩「大神 キッキ・マニトウ」は2004年11月18日 アルゼンチン・ブエノス・アイレスに在るアルゼンチン国立図書館で行われた朗読会で、「大神 キッキ マニトウ」は第150編目を記録した。

 ところで縁あってこのページを開き、文化学院の戸川エマ先生の事を知っている方、或は1963年4月、文化学院創立者西村伊作が亡くなった以後に入学し、戸川エマ先生の薫陶を受けた学生たち、及びその父兄たちよ!
是非、文化学院のホームページを開いて、”文化学院の歴史”をクりックして覗いて見て下さい。
 驚きますよ。
 文化学院の歴史の1963年以降に、文科科長・戸川エマの名前は、何処にも記されて無いのですよ。 
 あれだけ文化学院の為に、個人の人脈をフルに活かして、働かれ、我々、学生の為に知的恩恵を充分に与えて呉れた戸川エマ先生の名前が、完全に抹殺されている、と言う事實は、残念ながら今の文化学院の本質を物語って居るのかも知れません。
アサヒビールでは大阪の吹田工場の近くに、先人の碑、が在り、社に対しての功労者やお得意様の名前を刻み顕彰していると言う。それに引き換え、我らが文化学院の姿勢は?

 もう一度、1963年以降、現在に至るまでの”文化学院”、を、関係者の皆さんで検証してみようではありませんか。如何でしょうか?
ご存知ですか?同窓会も、会費を持ち逃げされて、週刊誌沙汰になりました。その後の文化学院同窓会は如何しているのでしょうか?この際、膿みは全て吐き出させ、あの文化学院・第三期黄金時代、を彷彿させる人材を育成させる為にも、どんどん、”戸川エマ先生の活動”を顕彰してみましょう。何かヒントが在るかも知れません。 
今の文化学院に限らず、学校と言う組織には、エマ先生のような教育に携わるに相応しい情熱在る人材は不要のようです。
 今日のような不毛な状況だからこそ、戸川エマ先生のような情熱ある、学生が求めているものを先取り出来る知的センス有る人物が最も必要なのだが。
若い学生たちの為にも、全く残念な事です!

                 2005年5月26日記す。天童 大人
                                  

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