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2005/01/27

詩人ロベルト・サネージ  ーオリジナル作品限定本『TERZINA』

      詩人 ロベルト・サネージ 
   
      -オリジナル作品限定本『TERZINA』

 昨年(1996年)の四月下旬、九月中旬、そして今年の四月下旬と、私はイタリア・ミラノ在住の友人、画家の森下慶三ことKEIZOの家を訪れている。その度に、彼が連絡を取ってくれているのだが、何故か、いつも会えなかったのが詩人のロベルト・サネージだ。彼のことは、本誌の一九九二年の八月号に、「「余白」の詩人ーロベルト・サネージ展」という文章で、個展のことを紹介した。しかし、未だに会っていなかったのだ。今回、スイスのベルンでの彫刻家、イヴ・ダナのオープニングパーティに出席の後、ローザンヌからミラノに戻った翌日の五月八日、Galleria,l‘Origimaleで行われる彼の個展”Opera lirrca"のオープニングパーティーに出るべく、私もアルテ・ジャポーネの中田佳江子女史と画家の富岡万里子さんと共に会場に向かった。
『オペラ・リリカ』の作品に於いては、彼の詩の作品やオペラ歌曲のレパートリーを、紙にインクで書いていったオリジナルなものである。彼は詩人として、翻訳者として、版画家として、評論家として、多様な活躍と言葉の卓越を我々に見せてくれるのである。
 ロベルト・サネージは一九三〇年ミラノ生まれ。一九九三年にヨーロッパ詩人賞を受賞しており、その間に喜劇オペラの”Da capo”、”TAXI”などの作品も手掛けている。T・Sエリオット、シェイクスピア、ブレイク、シェリーまでと幅広い。またミルトンの『失楽園』も彼の翻訳作品である。彼の芸術や文学の研究は『La valle della visione』にて見ることが出来る。
 彼の選集は多くの国の言語に訳されている。Vincezo Guarracino監修の『L!incendio di Milano (ミラノの熱情)』等である。イタリア以外でもサネージは自分の作品”scritture visive"をイギリス、アメリカ、カナダ、日本で発表している。
 画廊で渡されるサネージの紹介文を読んで、初めて知ることも多かった。人で埋まった会場を抜けるとテラスがあり、ワインを飲みながら、知人の版画家坂美奈子とも久し振りに話をした。遅れてやってきたKEIZOに改めてサネージを紹介された。そして夫人にも。会場で、一際目立つのは、詩画集が多いことだ。ほとんどが初見の書物だ。活字印刷の強さ、バランスの良さ。良い書物を身近かで見続けてきた者のみが得られる材質とのバランス感覚。学び得ない世界だ。私の『キッキ マニトウ』はいい本だと突然、サネージが言ってくれた。あれは装丁家の吉野史門の力に負っている。活版印刷で造った書物だ。決して印刷物ではない。サネージの作品も、線が伸び伸びとして、自由自在に、よりバランス良く、余白を活していて、五年前と比べようがない位、巧みになっていた。これでこそ、『TERZINA』シリーズの命名者であり、刊行の巻頭を飾るに相応しい仕事だ。
『TERZINA』とはサネージが編集顧問をしているミラノのセヴェルニーニ出版社が、昨年から始めた新しい企画であり、豪華オリジナル限定本シリーズで"傍観者”、”三つ折り”の意味を持つ。使用する用紙は、シシリー島、東のシラクーサで、エジプトの伝統、パピルスの技術を用いて制作された手漉きの30×71cmサイズの紙だ。年二回、イタリアで著名な作家三人の作品のオリジナルを限定百二十部制作、刊行し、三十部を世界中の国公立図書館に寄贈し、保存してもらう。三十部は作家分、三十部は出版社分、残り三十部は、作家相互の交換分となり、作家自らの金銭的負担は一切ない。それより、参加した作家の作品を一点ずつ貰う事になるのだ。このような画期的な企画が、手すき和紙の伝統を持つ我が国に、今迄、一度もなかったのは何故か。詩人も、画家も、出版社も、またメセナに関係し、芸術に関心がある振りをしている企業関係者にも、よく考えてもらいたい。ミラノの若い出版社主の心意気のひとかけらも、見当たらないのは誠に残念なことだ。
『TERZINA』の第一巻は、Robert SANESI、第二巻はSergio DANGELO,第三巻はJulio Le PARC(彼は一九六六年のヴェネツィア・ヴェンナーレの大賞受賞者である)、第四巻はKeizo MORISHITA、第五巻はMario ROSSELLO,第六巻はAntonio TERUSZI、そして今年の上半期の三人は、第七巻はADAMI,第八巻はTaijin TENDO、第九巻はEnrico BAJと刊行される。既刊分の六巻は、既に、東京の国立国会図書館に収蔵されているので、関心のある方はご覧になることが出来る筈だ。
 昨年の九月、イタリア・ウンブリア地方のトーディーで友人たちと一軒屋を借り、十日余り過した後、友人たちと別れ、KEIZOに会うべくミラノに向かった。そこで彼から二枚の紙を渡され、何か書いてみないかと言われた。そしてすでに出来上がっている第四巻目の自分の本を見せてくれた。
 私は喜んで紙を預かって帰国した。そして十二月、エジプト・カイロに向かう前に、「字」作品、二点を書き上げ、速達でミラノに送った。しかし、速達で送ったにもかかわらず、作品は締切日を大幅に越えた年末に、やっと届いた。
 今年の四月中旬、刷り上ったとの連絡をKEIZOから受け、カイロでのイヴ・ダナの石膏の仕事が、どのようなブロンズの作品に変化するのかを見極めるのを兼ね、自分の始めてのセリグラフの作品に、落款と限定番号を入れるべく、ミラノに向かった。そこで初めて、この企画の実行者であるセヴェルニーニ出版社の若い社主、ロベルト・セヴェルニーニとマッシモとの二人に会い、早速、仕事を始めたが一日では終わらなかった。そこで初めて私は、著名な画家のアダミとエンリコ・バイとに挟まれて自分の「字」作品が、世界にデビューすることになった。こんな幸運な事など、滅多に有る事ではない。これはサネージやKEIZO、セヴェルニーニやマッシモ等のイタリアからの私への励ましだと思った。来る一九九九年十月、東京・六本木にあるストライプハウスび美術館で、同館に於ける十二年振りの一ヵ月間に亘る「字」の個展に、セヴェルニーニやマッシモたちが来るという。帰国後、サネージから『ミラノの熱情』が届いた。ローザンヌのイヴ・ダナからは、一九九八年か九九年に、ジェノバの財団の助成を受けられる可能性があることを伝えてきた。
点と点とでしかなかった形が二十一世紀に向かって、やっと線を引き始めた。この線は強く、烈しく、鋭く宇宙を刻みながら歩み始めるだろう。
           『現代詩手帖』(1997年7月号)に掲載より

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2005/01/23

国文学者・加藤守雄先生のこと

     古代の情熱に向かって
 
                       天童 大人 
 その日の朝も、いつものように新聞を取りに階下に下りて行き、居間に戻って、ガスストーブを灯け、新聞を読み始めた。そして、劇作家・サミエル・ベケットが亡くなったのか、八十三歳でと読みながら下段に視線を移すと、あっと叫んでしまった。

加藤守雄氏(かとう・もりお)=折口博士記念古代研究所客員研究員、元慶應義塾大文学部講師)二十六日午後五時三分、呼吸不全のため、埼玉県北本市の北里研究所メディカルセンター病院で死去、七十六歳。葬儀・告別式は二十八日午前十一時から東京都中野区上高田一ノ二ノ十二の竜興寺で。喪主はめい、土井町子(どい・まちこ)さん。自宅は埼玉県鴻巣市生出塚ニノ三三ノ四。
折口信夫のまな弟子の国文学者で、角川書店の雑誌「短歌」の編集長、文部省の芸術祭テレビ部門審査委員を務めた。著書に「わが師 折口信夫」、「折口信夫伝」がある。  -一九八九年十二月二十七日朝日新聞朝刊よりー

 昨日の五時三分に亡くなったって?だって昨日の二時すぎに、大塚フオーラムの事務室から、文化学院の事務担当の中村悦子さんと電話で、加藤先生の病状について話し、その後、何故かお茶の水に出て、文化学院に行き、直に中村さんと話をしたばかりなのだから、心から驚いたのだ。時計を見るとまだ六時五十分。九時から文化学院は始まる。待つ二時間余りは長く感じられた。そをっと階下に降り、書棚から署名入りの『わが師 折口信夫』、『折口信夫伝ー釈超空の形成ー』を取り出して開いてみた。特に『折口信夫伝』には識語が『うやうやし/天童大人にまみえたり/だみ声張りて/うた歌ひ給ふ/逸民 加藤守雄 三礼ー』と記されていたことに改めて気がついた。
 加藤先生には多くのことを教わった。「教わった」という感懐を持ちえた数少ない先達のひとりであった。特に文化学院文科二年の時の、読書感想文で、私が選んだシュリーマン著の『古代への情熱』についての文章が、朱筆で戻されてきた。その朱筆の内容がなんであったか、今ではすっかり忘れているのに、「トロイ」という地名だけは、何故かくっきりと潜在意識に刻まれたらしい。だから一九七三年五月中旬、フランスとスペイン国境のイルンから、オートストップでトルコをめざして出発した時、なにがなんでも、あのトロイから加藤先生に手紙を出そうと思ったのだ。だから、言葉も不自由でありながら、一ヵ月後にはどうやら辿り着くことが出来た。しかし、人が入った木馬が、通れるような道は何処にもなかった。だから、本当のトロイは他にあるのではないかと思った事を思い出した。ともあれ、あの時の旅の体験が、深い重要な意味を含んでいたことを、今ならはっきり直識できる
まだ九時にはならない。
 私が文化学院文科に入学したのは、創立者の西村伊作氏が亡くなった直後の一九六三年四月だった。その時の先生たちは仏文学・若林真・高畠正明、万葉集講読・加藤守雄、宗教・仁戸田六三郎、文芸思潮・桂芳久、中国文学・藤田祐賢、社会学・下田重明、西洋哲学・平本洋子、文章・戸川エマ、心理学・乾孝、北欧文学・山室静、ロシア文学・原卓也、江戸文学・興津要、日本文学・塩田良平、コーラス・秋山日出男等であった。なかでも戸川エマ、加藤守雄、桂芳久、の三先生とは、特に往来があった。二年生の時に同人を募って作った同人誌『文学學共和国』は、桂先生が大学生時代、田久保英夫・山川方夫氏等と共に活動した雑誌の名前を貰っての船出だった。広告も、紀伊国屋書店の田辺茂一社長を、エマ先生の紹介状を持って訪れ、お金を貰ってきたこともあった。その年の学院祭の「秋の集い」の時、伊作の娘の利根に、「あのシブチンの茂一からお金を貰ってきたって、凄いわね」といわれたことも想い出した。(田辺茂一って本当にケチだったのだろうか? 私は知らない。)
 「文學共和国」はまさに共和国だった。同人の一人は、フラメンコギターラとなった白土征彦、陶芸家になった村田萌子、イタリア・フィレンツェ在住の雨宮紀子、芥川賞候補にもなった村上博こと作家・辻原登、スペイン・サンタンデール在住の山内正子等、おもしろい人々が桂芳久の元に集まった。そして誰も好き勝手にやってきた。これが、どんなに大切な事なのかは、今ならよりはっきり分かる。我々を背後からサポートしていたのは加藤守雄せんせいだった。先生っていうのは何かおかしな気がするよ。加藤さん、加藤さんといっていた。だから『わが師 折口信夫』の書き出しが『「プロフェッサー加藤。プロフェッサー加藤。お電話ですよ」』に、私はおもわず笑い出した。
 絶妙な書き出しだったからだ。だから加藤先生が、「あんな文章が書ける作家はいないと杉村(友一)が言っていた」というのを聞いて、次はいつ書きますかと問うと「一千万円の(1960年当時)小説を書いたらステーキをご馳走するよ」と言われるのが、その後の先生の口癖だった。
 ともかく加藤先生は折口学だけではなく、色々な情報をもっていた。その教えの数々は作家・詩人たちのことをアイロニー豊かに告げてくれた。そして、それは先生の言ったとをりに多くの作家や詩人たちが動くのを、おかしく、おもしろく遠くから拝見させて貰ったと今なら、言ってもいいだろう。折口門下で、最も才能のあった男が、子供たちに向かって言う言葉には「毒」がありすぎた。振り返ってみれば二十五年余り、加藤守雄の毒舌を浴びてきた事になる。それも無頼と同じく、学者の卵でもない、なにに孵化するのか分かりもしない輩に向かって、色々と告げた言葉は数限りない。だから詩人・吉増剛造と始めた「北ノ朗唱」についてだって、その頃おもしろいことを言っていた。そうして八年、まさしく先生の言ったとをりの展開になってきている。
 時代が大きく変わる今日この頃、ぜひ加藤先生の言葉を聞きたいと思うことが多くなるというのに、大事な人が消えてしまったことを実感すると寒さが甦ってきた。
 九時になり、文化学院に電話をするが話中だ。多くの教え子たちが、余りの早さに驚いて問い合わせているに違いない。ダイヤルをただ必死に回しているうちに通じて中村悦子さんの聲が飛び込んできた。彼女はまだ朝日新聞の朝刊を見ていないようだ。ともかく、「文学共和国」の同人はじめ、知っている同級生などへ、連絡することにして、ともあれ、二十八日の告別式に出ることにして、電話を切った。

 「テンドオさんでは?」と見知らぬご婦人から、聲をかけられたのは、JR東中野駅に着いた電車から、降りようとした時だった。
 あまりにも不意なので「えヽえヽ」と答えて、相手の次の言葉を待った。
「戸川エマ先生の出版記念会の時にお会いした」とのことで、学院関係者と分かり、何故かほっとした。並んで告別式の会場に向かって歩き始めながら、このご婦人、野口須美子さんがここに居るのが不思議だったが、もっと不思議だったのは彼女の口から語られる私自身のことだった。
 「確か文藝雑誌の巻頭に詩を発表されたことがあったでしょう」
 「ええ、もう四、五年前ですかね。」
 「掲載された雑誌を、本屋で先生、買って、わざわざ家に見せにこられたんですよ。テンドオの詩が載るようになっつたと言って、凄く喜んでをられたんですよ。」
 私は自分の耳を疑った。加藤先生が喜んで、この野口さんの家にまで見せに行ったって? そんなこと俄に私は信じられなかった。
 しかし、次から次へと話す野口さんの言葉を聞きながら、ここ二年余り、会っていなかった。余りにも偉丈夫な先生だったから、そう簡単に肺ガンでなんか亡くならないだろうと、自分で勝手に決めこんでいたことに気がついたが、でもどうしても亡くなったとは思えなかった。
 告別式の受付で中村悦子さんからあがってと言われて、素直にあがった。控え室で待っているうちに、桂芳久(北里大学教授)がやってきた。北本市の北里メディカルセンター病院は、加藤先生から頼まれて紹介された事を知った。告別式が始まったが、私は野口さんの口から語られた加藤先生の言葉を幾度となく、想い出していた。出棺の前に、死顔に対面出来た。安らかな表情だった。
 外に出ると見知った顔があまりにも少ないのに驚いた。突然だったので連絡が間にあわなかったのだろう。火葬場に向かう霊柩車を見送って、桂芳久氏と共に駅に向かった。しかし、このまま真直ぐに帰る気になれず、駅近くの蕎麦屋に入り、色々と文化学院の話などしながら飲んだ。私が知っている学院の文科の先生だった加藤さんが亡くなって、ついに我々の「文化学院文科」は滅んだ。なんの取り柄もないただの専門学校になりさがってしまった。酒量は増した。
 気がつくと夕刻になり、店を出た。発券売場で先生の教え子三人と出会い、まだ帰りがたく、久し振りに学生気分になって、五人で新宿のビヤーホールで再び飲んだ。痛飲しなければ、いたたまれない気持が私にはあった。病人への見舞いは健康者の思い上がりとばかり避けてきていたが、こんなことなら思い切って伺えば良かったと思う。
真に才能のあるひとりの国文学者のひっそりとした死が、もたらす損失はあまりにも大きい。最後まで衰えることがなかったというあのアイロニー溢れる言葉をもう二度と聞くことが出来ない。
加藤守雄先生、本当に有難うございました。ゆっくりお休み下さい。

戒名 慈光院謙徳常照居士 七十六歳 合掌

        詩誌『ハリー』第23号(1990年3月1日発行)掲載より

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