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2005/01/30

無名の天才彫刻家イヴ・ダナのこと

        戦慄が走るオリジナリティ


                 天童 大人 てんどう・たいじん
                 詩人・朗唱家・字家=一九四三年、
                 小樽市生まれ。独協大外国学部
                 フランス語科中退。詩集「玄象の
                 世界」ビデオ字・聲集「即興朗唱 
                 大神・キッキマニトウも世界」ほか。

 海外の美術情報のほとんどは、ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、ミュンヘンといった大都市に集中している。裏を返せばそれ以外の地域が、いわば盲点になっているとも言えるだろう。
 今回、私の触れる若き無名の、しかし、天才と呼ぶべき彫刻家イヴ・ダナも、そんな盲点地域の一つスイスから出現した。
 無名と書いたが、かって巨匠マリノ・マリーニやバーバラ・ヘップワースらを取り上げ、現在も息長く刊行を続けているスイス・グリフォン社の叢書<二十世紀の彫刻家>の最新刊が、このダナを扱っている。一昨年の二十九歳の時のものだが、二十代で自分の作品集を出したのは、世界広しといえども彼くらいのものだろう。
 その作品集には、二十四歳から二十八歳までに制作された七十四点のうちから四十点余りの作品と、アトリエでの仕事ぶりや彼の詩的断章などが収録されている。
 昨年六月、東京・渋谷の古書店で、その頁を捲りながら、背筋に戦慄が走ったことが、昨日のように思い出されてくる。一点一点の完成度が極めて高く、誰にも真似できそうもないオリジナリティに満ち溢れた造形。
 天才!。まさしく現代では死語になってしまった言葉が、ふと私の脳裏に閃いたのである。もちろん、いくら鮮明でも写真には限界がある。それだけでは、彫刻の量感や質感はわからない。作品集『DANA』の発しているメッセージをひしひしと感じた私は、すぐにグリフォン社に問い合わせ、彼に直接手紙を書き送ったのである。待つこと二ヵ月。やがて彼から、三度目の個展カタグロと一緒に、自分の仕事を見てもらいたいという返事が届いた。
 私は九月下旬、十二年振りのヨーロッパに向けて出発し、ローザンヌの彼のアトリエに立った。
 「ぼくの作品は触って見てくれ」。アトリエを訪れた私に、ダナはそう言った。遠慮なく触れることにした。彼の作品は鉄とブロンズ。触れてみると、写真ではつかめなかった量感や質感が良く分かる。何より、鉄がこんなに温かく感じられたのは、私には初めてのことだった。作品集では見ることが出来なかった大きな鉄のレリーフもある。広いアトリエの二階に置かれた作品は、すべて売約済みとのことだった。
 ダナは湧き出るイメージを、デッサン、もドローイングもなしに作品化する。五ミリ厚の鉄板を切り、打ち叩きながら、いつのまにか、あの驚くべき形態を作り上げてしまう。デッサンを描き、マケット(模型)を作ったあとは職人まかせ、という発注芸術が多い中で、ブロンズ鋳造まで自分の手でやり通す彼の姿勢も、また貴重である。
 「ぼくの第一の妻は彫刻だ。僕は彫刻と結婚した」と言い切れるだけのことを、彼は現実にやっているのだ。
 ダナは生粋のスイス人ではない。二歳の時に、両親と兄と二つの鞄と共に、エジプトのアレキサンドリアからスイスに亡命してきたのである。彼の作品の特異なオリジナリティの奥底には、彼の出自からくるものが色濃く息づいているのかもしれない。
 ともあれ私は、ダナは凄いの一語に尽きる作家だと思う。だからこそ、わが国の若い作家たちや美術ファンに、彼の作品に直に触れてもらいたいという思いがつのった。幸いにも十数年来の友人で私のダナをめぐる一部始終を見ていた熊谷雅明氏が、その夢をかなえてくれた。彼はこの三月(1990年)、東京・大森に、ギャラリーKUMAGAIを開設。そこへダナ二十四歳の時の鉄の作品「鉄床の夢」と、二十五歳の時のブロンズの作品「序曲」の二点が届いたのである。
 作品集を発見してから、約九ヵ月が経っていた。
 その日、実物と初めて接する熊谷氏とともに、梱包を解かれたダナの作品と対面した。さして広くもない空間で、座ったり立ったり、触ったり動かしたりして七時間余り、我々は二つの作品を見続けた。それらは、刻々と新しい生命を刻むように、見るたびに表情を変え、視線を飽きさせることがなかった。
 この画廊には年内に、さらに何点かのダナの作品が届くことになっている。
 若手よりも大家、無名よりも有名に価値があると信じこんでいるこの国で、彼の作品がどんな反響を巻き起こしていくのか。
日本でのダナ発見者として、その行方がとても楽しみだ。

  毎日新聞 1990年5月14日(夕刊) 掲載より

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一条の戦慄が走ったー若き彫刻家との出会い

    一条の戦慄が走った -若き彫刻家との出会い


                         天童 大人

 この六月(1989年)のある日,渋谷の通い慣れた書店の棚で見つけた一冊の作品集(スイス・グリフォン書店刊)が、十二年振りにヨーロッパの大地に触れるきっかけになるとは、夢にも思わなかった。一瞬、『DADA』と見間違えた程、『DANA』は似ていた。だからすぐには手に取らなかった。厚さ二センチ余りの本を手に取り、ページをくって行く。仕事で汚れた手が写し出され、(女性と思えるほど華奢で)、横顔のポートレートも少年のように見える。しかし、掲載されている作品群は、一点の無駄もない、鋭さがあり、しかも「鉄」だというのに温かみがあるのだ。一条の戦慄が体内を走った。これは本当に稀有なことだ。
 しかし、このYVES DANA(イヴ・ダナ)という名前は、私は一度も耳にした事はなかった。この作品集は、過去五年余りの作品群だ成り立っているという。決して小品ばかりではない。例えば五年前に制作した「CHANT DE LA MAIN Ⅴ」=写真=は160×450×200センチあり、五ミリの鉄を叩いて作られたイヴ・ダナ二十五歳の時の作品だ。友人のM・K氏に電話をして、尋ねてみたが一度も聞いたことも無い名前だという。私にかって一度もなかった事だが、これらの鉄の触感を確かめたい思いもあって、作家宛に初めて手紙を書き送った。その間、毎日、飽きずに作品集を眺めていた。普通、作品集を作る場合、駄作も含まれているものだが、甘さのある作品が一点も無い。
 この若い作家の恐るべき本能は並みのものではなかった。現在、当たり前と化した発注作品で無かったとしたら、彼こそ、現代で死語と化している<天才>ではなかろうか。
 以前三年近く、ある新聞の美術展評を担当し、毎日のように銀座を中心に画廊巡りした体験を踏まえても、これだけの若い逸材の彫刻作家には出会わなかった。彫刻の本道を歩んでいながら、決してヨーロッパ的でもない。もしかしたら、彼の出自、エジプト(アレキサンドリア)生まれと深い関係があるのかも知れない。
 バカンスの季節も終わり、二ヵ月余り経た九月上旬、速達と共に、展覧会のカタログが届けられた。
 「自分は、デッサンも素描も一切しない」と記してあり、「自分の仕事も見てもらいたい、ゆっくり話をしたい、泊める用意も出来る」とのことだった。
 霊性的直感が動き始め、返事を受け取って三週間後、私は、ローザンヌの彼の家に居た。そしてアトリエの作品群を見てから、グループ展に出品しているダナの作品を見るために、彼の作品のコレクターで、友人でもあるスイス ポリテクニカル大学のショッカール教授夫妻と共に、外の会場にまで見にも出かけた。

 「テンドオが私を日本で発見した」と微笑みながら語る天才彫刻家イヴ・ダナ。
 「一冊の作品集を見ただけで、ローザンヌにまでやって来るなんて?」と驚く教授一家。
 しかし、現実に設置してある場所で、彼の作品を見てみると、より強く彼の<天才>を感じる事が出来た。
 特に写真の作品はローザンヌのある銀行のロビーにさりげなく置かれてあり、(このような銀行のロビーが日本のどこにあるのかしら?)デッサンも素描もなく、彼の華奢な手から産み出されているのだ。彼はブロンズの鋳造もミラノに行き、自分自身で行うという。
 詩人エズラ・パウンドが、二十三歳で戦死した天才彫刻家ゴオディエ=ジャレスカを発見し、回想録を書いた顰に倣って、いずれ私も、この天才彫刻家のことを書かなくてはなるまい。
 今、最も求められているのは真の<天才>なのだから。
 それにしても一冊の書物の持つ重さは、計り知れないことを自らの体験を通して、改めて実感した。

                      (詩人、 小樽市生まれ)
 
          北海道新聞(1988年12月12日、夕刊)掲載より

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