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2006/03/23

政治評論家・森田 実氏の「日本の未来を切り開く」、を見る。

  まともな事を言う政治評論家の森田実氏が、最近、テレビで見かけなくなった。
何故かな?何処からか圧力がかかったか?
こんな可笑しな政治状況で、小泉首相、竹中金融大臣、武部幹事長の政治責任の取り方があやふやのまま不問にされようとして居る。
こんな愚鈍な政治家たちを選んだのは、国民の民度が低いからだと言われても仕方が無いのか。
しかし、霊性の低い、品性の無い小泉首相の口から、「品性」と言う言葉が飛び出し時は、流石にぶっ飛んだね。
品性、が泣く。
全く、最近、特に顔相が悪くなった小泉首相には相応しいのかもしれない。あの顔相は何かが憑依しているか、誰かに脅かされているのかも?
顔相の悪いのは、何も小泉に限った事では無い、古い歴史をもつ我が国で、金融大臣の竹中平蔵の顔相も、卑しく、貧相に満ちているのは何故か?武部勤然り。自分の息子、弟です。良いね。人を騙す男が息子であり、弟とは。服装にいくら気を配っても、頭の中味は中味は空っぽ。褒めれば豚でも木に登るか。
これら霊性の低いこれらの者たちに、時、至ればが天が判決を下すだろう。

後世、売国奴として扱われなければ良いのだが!

 刺客、ガセネタ、等、1国の為政者が率先して使うべき言葉ではない。
それとも日常茶飯事に使うようなヤバイ連中との親しい交際が、郵政民営化絡みで有るのかも知れませんね。
9月退陣、続投したくても、出来無いのではないか。命に関りますからね。
残念ながらもう手遅れで、早期退陣もままには為りませんか。

このような時こそ、きちんと説明できる政治評論家が求められるのだ。
 是非、森田実政治評論家のホームページを見てください。

   http://pluto.dti.ne.jp~mor97512/   を。

 第9回 ライブドア事件を、まともに解説、問題点を指摘しています。

 新聞やテレビでは聞けない話ですよ。眼が開きますよ。

 情報操作が行われている日本で、ブログやホームページで様々な意見が、今のところ発信できる事は喜ばしい事です。

 さあ、大きく、眼を覚ましましょう。

ライブドア事件絡みの小泉、竹中、武部の三政治家の政治責任を明確にさせ、つまり政治責任をとって早期に辞職させましょう。
 この日本が取り返しのつかない日本になって仕舞わない、手遅れに為らない為にも。

  日本の国民の為に働く霊性の高い政治家は何処に居るのか?
  もうそろそろ出現してくれても良いのではないか?


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2006/03/21

春分の日、4年前、イタリア・ヴェローナの野外劇j場で聲を奉納した。

 
 このアレーナ(野外劇場)、2000年の歴史に対して、訪れた春の初めての日に対して、そしてノーベル賞候補にも為ったイタリアの詩人ロベルト・サネージに対して、と三つのオマージュを兼て、4年前の2002年3月21日正午(日本時間20時)、かって皇帝が立った場所から、聲を出し始めた。

 この時、世界中で声を出して、聲と聲とを繋ぎ、世界の平和を願いませんか、との公式メッセージを、ベローナの文学者協会の公式ホームページから発信した。
 日本では、未知の人、永 六輔氏が、ご自身のラジオ番組でこの催事を放送してくれた。毎日新聞、北海道新聞等が、告知してくれていた。

 好きなだけやってくれても良いとの許可を得ていましたが、実際に皇帝の場に立ってみると、身が引き締まりました。
 アコーステックでの公演との条件付きでしたから、マイクロホンを普段から用いない私の公演にはなんら支障はありませんでした。

 終わってみたら45分間、きっちりと聲を出しましたし、出せました。

 これも全て、詩人ロベルト・サネージの亡くなっても続いている厚い友情の絆と、文学者協会の秘書、グロリア女史の献身的な行動に依って、、ヴェローナ市の記念物・美術館部門のアレーナ(野外劇場)使用許可証を獲得してくれたか実現できた催事であり、貴重な体験であった。
 この時の公式ビデオテープは3ヵ月後に届き、先日の練馬区立第六小学校4年生クラスの生徒にも見てもらった。

 毎年、春分の日が来ると、あのアレーナで貴重な時間を、瞬間を昨日の如く、思い出すのだった。


 時間は残酷で、もうトリノに住んでいたグロリア女史の母親も、友人のミラノ在住30数年の画家・KEIZOも、残念ながら、既にこの世には居ない。

  まだまだこの水の惑星の平和を願っての「聲ノ奉納」は、止む事が無い。


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2006/03/20

「声ノ力」を小学生に教えて見た。

 小学4年生に、縁があって、声の出し方を教えた。面白かった。

 去る2月8日、東京都練馬区立光が丘第六小学校の4年生2クラスに「UNIVERSAL VOICE」の真髄を教えに行った。
 そう書くと何か堅苦しい感じがするかもしれないが、そんな事は無い。とても楽しい授業だった筈だ。
そう言ってみても実際に、その場に立ち会わなければ、恐らく解らないだろうが。

 何故、今頃に為って、1ヵ月以上の前の事を書き記すかと言うと、受講した生徒たちの感想文が、3月9日に、私をお招き下さった画家で、図工の先生である岩本重規氏から、授業を受けた生徒の9割以上の生徒から「楽しかった。」、「毎朝、コルク体操をしています。」、「「大きな声が出るように為った」等の感想文を多数受取ったからだ。

 何故、私が、小学生に教える機会を得たかと言うと、多摩美術大学教授で、美術評論家の峯村敏明氏の出版記念会を兼ねた展覧会が表参道であり、私もその会に行き、峯村氏の著書『彫刻の呼び声』(水声社刊)を買い、会場であった画家の岩本重規氏と会い、共に二次会に出席し、共に帰宅する時の山手線の電車の中で、かって、渋谷の毎日カルチャーセンターで、公開講座「UNIVERSAL VOICE」をスウイングボ-ルを用いて行った時に、同級生の画家、こづま美千子の紹介で、聞きに来た事が有る事を知った。
 元気の無い子供たちに刺激を与えたいとの教師の立場から、ギャラは少ないのだが、授業が出来ないかとの相談を受けた。

 神に聲を奉納し続けている者として、またこの水の惑星に平和を願い続けている者として、子供たちの為に、と言われたら、断る事は無い。すぐ引き受けた。

 水晶の屑を集めて作ったと言われるスウイング・ボール、又はクリスタル・ボールは、癒しとか、ヒーリングで用いる者が最近は増えているが、恐らく、日本で最初にスウイング・ボールを用いたのは、1992年からの、この私ではないかと思っている。

 二クラス、合計45人余りを8時半から12時過ぎまで、しっかり声を出させた。
 本当にこんな事をして、声が出るように為るのかと子供たちは思ったに違いない。

 私の教えは、1990年、ザルツブルグでのソプラノ歌手・ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(チェリスト・ロストロポーヴィッチ夫人)のマスタークラスで学んできたテクニックだから、昨今、ヴォイス・トレーナー等と自称している輩達とは「聲ノ力」が違う(笑)。
 1990年からは、毎年、5月か6月の新月の日に(今年は5月27日(土)14時41分開始) 対馬・和多都美神社での「聲ノ奉納」を行い続けて、「聲ノ力」を試しているからだ。

 子供たちは正直だ。
 本物かニセモノかは本能的に判断するからだ。だから子供に好かれなければ、言葉の出来ない未知の土地では生きていけない事を1972年のスペイン北部での生活で知っているからだ。

 何を子供たちに教えたかは、誰にも教えない。

 翌日から、学校でしっかり声を出す事を実行しているらい。
 子供たちの感想文を読むとそれが良く分かる。
 余程、子供たちは楽しかったらしい。

 良かった!
 又機会があれば日本とは言わず、何処へでも教えに行きますよ。
 ご連絡下さい。
 
 岩本重規先生、有難う!!!
 又機会が有ったら読んでください。

 喜んで、伺いますよ。

 可愛い子供たちに、くれぐれも宜しく、お伝え下さい。

                    天童 大人

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2006/03/17

3月21日、レユニオンで国際詩祭を開催すると、

 レユニオンの女性詩人、アニー・ダレンクールから17日午後2時5分、突然、連絡があった。

そこでアニーがテンドウの詩作品「塔の聲」と他に1編を読むから、許可してくれとの電話があった。
 アニーとは2年前、日・仏語でのCD「UNIVERSAL VOICE」(北十字舎刊、定価:2205円 販売は銀座ヤマハ、六本木:ストライプハウスギャラリーのみ)を刊行している。
 彼女の聲は私の聲と拮抗して発せられる、見事なフランス語だ。日本人には到底出せない「聲の質」だ。

 今年は1日限りだが、来年の11月、レユニオンでアニーが主催者となり、レユニオン国際詩祭が開催されると言う。

 ポルトガルのアヴェイロ国際詩祭の主催者のロサ・アリス・ブランコ女史など顔見知りの詩人たちの名前を次か次へと挙げた。

 再会が楽しみだ。

  レユニオンと言えば「チクングャ熱」で、人口78万人の内、25%18万6000人余りが罹り、93人が死亡している(3月3日、現在)と言うが、幸い私の友人たちは全員、無事だという。

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2006/03/16

イラク派遣 隊員3人、帰国後自殺 防衛庁「原因特定できぬ」(朝日新聞3月10日付)を今日、読んで再び。

 幹部だ、隊員だと自殺に階級は、全く関係ないのだ。

先の(3月11日付)ブログに書いたYAHOO!ニュースより、朝日新聞の記事の方が早い事が今日、遅ればせながら分かつた。
 3月10日付の朝日新聞朝刊の38面に谷田邦一編集委員の分で、表題の記事が掲載されている。
もし解説に書かれているように、

 幹部ら3人が自殺しながらも、防衛庁が本格的な実態把握や原因の分析に乗り出す気配がない。

なら大変な事が起こる。
 すでに自殺した者だけではない、イラクに派遣された自衛隊員、全員に関って来る重大な問題なのだ。
自殺だけでは無い。離婚する者も増加する筈だ。

 
 メンタルヘルス対策では、埒の明かない、イラクに行った為に起こる現象だからだ。
 今後とも派遣された隊員の行く末を刮目して、監視する必要が有る。

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2006/03/13

ゴミから石油を産み出す伊東昭典氏。

 プラマークのゴミから石油を作り出す油化装置を開発している人の映像を、何気なくテレビをつけて見たら、やっていて驚いた。
 プラマークも詳しくは知らなかった。
細かいチップにして濾過し石油にする油化装置を開発している伊東昭典氏。

 3月12日(日曜日)の午後6時半過ぎ、TBSの番組「ドリームメーカー」を見て、伊東氏の夢の有る仕事を見て、久しぶりに楽しくなった。
 石油資源は皆無な日本。ゴミから石油が出来る!!!

本当に夢のような話だ。
 こういうプロジェクトに対して、国が育成、助成、援助をしっかりしてあげるべきだ。
ジャーナリズムも、もっとこの油化装置の事を取り上げて、この油化装置をより簡便化し、より利用をし易くするべきだろう。
 災害地での発電、無駄なゴミの再利用等、貧しい日本をより豊かにする、貴重な試みだろう。

 速やかに国が協力を!!!

  貧しい日本。物が在る様で無い国、日本。

  日本の素晴しい伝統、例えば、お月見、何処へ行ったの?お月見は?
  月で、兎が餅を搗いていた?

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2006/03/11

イラク経験者で自殺5人=陸・空自派遣2年間ー防衛庁、を読んで。

 今朝、何気なくYAHOO!ニュースを見ていて、(時事通信)-3月11日6時3分更新、を読んで、来るべき恐ろしい時が訪れ始めた事を知った。

 政府関係者によると、2004年1月から今月10日までの約2年余で、陸自4人、空自1人の自殺者が出てた、とか。
 これまでイラクに派遣された隊員は陸自が延べ5000人、空自が1600人に上がる、と言う。
 防衛庁は「自殺の原因を特定する事は困難で、イラク派遣が原因になっているかどうか分からない」としている、と言う。
 では防衛庁は、派遣された約6600人の内、妻帯者が何人で、その内、帰国後、離婚した者が居るか、居ないか?居るとすれば何組か?もしかしたら離婚を考えている隊員は現在、どの位居るか?
防衛庁は把握しているだろうか?

派遣された隊員の帰国後の心理テスト、面談に依る聞き取り、等を行って来たのだろうか?精神面のアフターケアは行われたか?
自殺者が出ているところを見ると、されていないのではないか?
派遣された隊員の1パーセントに相当する70人余りの人間が自殺し、1パーセントの妻帯者が離婚に為れば、派兵はすべきで無かった事にやっと気が付くのかも知れない。

もし既に離婚した人間が居るのなら、どの位の数なのか是非教えていただきたい。
 今後、益々、派遣隊員の離婚数は増えるはずだからだ。

自衛隊の海外派兵など日本は絶対にすべきでなかった。ブッシュの犬とフランスの新聞に揶揄された為政者を選らんだ国民の民度の低さが問題だ。

 庁から省など、論外なのだ。
談合問題、情報流失だけでは無い。既に隊員の心の内部から、自壊作用が始まっているからだ。

さて、 幾ら民度が低い国民と言われているのも、もう程ほどにだ。

 チルドレンを国会議員にしている国は、日本以外に無いだろう!!!
 テレビで話していた山本晋也監督でなくても、今後、海外で問われた時説明するのに困るのは、日本を背負って立っている人間たちだ。

 もう誰もが、眼を覚まし、主権者が国民で在る事をはっきり自覚する時が来た事をしる時だ。

 風を吹かそう!!!

 覚醒への強い風を!!!


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2006/03/08

有元利夫(画家)さんから贈られた画集の謎。

  直に夫人の画家で陶芸家の有元容子さんに訊ねてみたがやはり謎だった。

 この6日、月曜日の午後、銀座の画廊を巡り歩いて、77ギヤラリーに立ち寄った著つた。
そこに、彼女の作品を購入したコレクターと共に居た有元容子さんに会った。
暫らくして誰も居ないのを幸いに、永年の謎について訊ねてみた。
 
 それは有元利夫が亡くなったのが1985年2月24日、38歳だった。
その亡くなる数日前に、私の家に作品集『女神たち』(1981年美術出版社刊)が、何も書き記されずに紙袋に入って届いた。
 何故、今頃に届くのか解らず、不審には思ったが問い合わせもせずに居た。
数日後に贈り主の訃報を聞き驚いたが、誰にも聞く事は出来なかった。
何れ何処かで容子夫人に出会った時に訊ねようと思ったが、中々出逢わず、早いもので21年の歳月が過ぎていた訳だ。

 直に容子夫人に尋ねてみても謎は解けないままだ。
 何故、最晩年に贈ってくださったのか?
 かって彼にインタヴィューしたり、原稿を依頼した事が有るからではあるまい。
 依頼した文章は、『もうひとつの空ー日記と素描ー』(新潮社刊、1986年)に収録されている。

 銀座のみゆき画廊で顔を逢わせる度に、体がだるい、腕の付け根が痛いとか、彼が言うものだから、早く一度しっかり医者に診て貰ったらと、幾度と言ってあげていたからか?

 謎は未だ謎のままだが、何故かを考えるのは楽しい事だ。

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2006/03/05

日本国憲法の「天皇」起草 プールさん死去 86歳(毎日新聞2月28日夕刊ヨリ)

 あの私の「聲」の命名者、ジュリアン・プールさんの御主人が亡くなったのだ。

 去る2月28日付の毎日新聞の夕刊を見ていたら、顔写真入で、死亡記事が出ていた。
このリチャード・プール氏には、一度だけお会いした事がある。
それは忘れもしない、1987年9月、アメリカのケネディ・センターの副館長として、日本の財界等にに資金援助の依頼に来日した夫人のジュリアン・プールさんに同行して、何の偶然が差配したのか、京都へ行くまでの1日だけぽっかり空白の時間が空き、多摩美術大学の渡辺教授がご案内して、銀座の今は無い日辰画廊で、その日が、初めて「聲」だけで表現する試みを行った即興朗唱作品、NO1「魑(スダマ)」誕生の場にプールご夫妻は立ち会ってくれたのだ。
 その会が終了後、二次会を持った有楽町の「炉端」の三階に行った。そして帰り際に、誰も居なくなった時、ジュリアン夫人が、テンドウ、二次会に参加したのは初めてです。
 あなたの聲は、UNIIVERSAL VOICE。もしアメリカで何かやるときには連絡して下さいよ、協力するからと。
傍に居たアメリカ人が、ハリー来航の三世です。函館に来ましたよ、と日本語で突然、話しかけられたので、ビックリした。この温厚な紳士が彼女のご主人なの?何をしている人なのかと思い巡らした事を昨日の如くはっきり覚えている。
 その後、プールご夫妻は、来日し帝国ホテルに宿泊されるたびに、炉端に立ち寄られたらしい。
 数年前(2005年でした。)、ふと夜遅く、炉端に立ち寄ったら、さっきプールさんが寄ってくれて、テンドウは元気か?つて訊ねていたよ。恐らく、帝国ホテルだから連絡してみたら、と言われた。
今夜はもう遅いので、明日朝にでもと思い、翌朝、9時に帝国ホテルに電話をした。暫らく待たされた後、10分前に車が来て発たれました、との事だった。
 何故、来日したのかと不思議だったら、謎は直ぐに解けた。

 2000年5月、参院憲法調査委員会に招かれ、起草の過程などを証言した、と。
その為に来日した時の事だったのを知った。

 これは2月28日付 毎日新聞夕刊の死亡記事を見て、感じた事だ。
 名付け親の御主人が亡くなったのだ。
 プールさんはどうしているだろうか?
 お元気なのかな?

 謹んで、ご冥福をお祈りいたします。

 
                 天童 大人

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2006/03/02

吉田一穂(詩人)と石楠花祭 果てしない天地で朗唱。

  詩人・吉田一穂が亡くなったのは1973年3月1日。あれから、もう33年も経ったとは、驚きだ。
  片付けをしていたら、「吉田一穂と石楠花祭」と言う、1983年6月28日付、上毛新聞に掲載されたエセイが出て来た。
 命日だったし、そのまま掲載する事にした。


   吉田一穂と石楠花祭

                    天童 匡史

 限られた狭い空間で、肉声を発するのではなく、果てしない天地で朗唱をしてみたいものだと、二月に行った北海道朗唱ツアー以後、漠然と考えていた。
 三月上旬、詩人吉田一穂師が亡くなられて、十年たち、今年、初めて弟子一同により「吉田一穂師を偲び語る会」が、都内でもたれた。一穂師の最晩年に出逢った者として、また会の発起人のひとりとして名を連ねたこともあり、出席した。その席に草津から坂本嘉市氏が出席されていたことを、坂本氏が語りはじめて初めて知った。
 今、一穂師の詩碑は、この三月亡くなられたホトトギス同人の俳人水原悠々子によって古平に建立された詩碑「魚歌」と草津温泉在住の坂本氏が建てられた「山媛呼」の二つである。そして、坂本氏の口から、毎年、詩碑の前で石楠花(シャクナゲ)祭が執り行われており、今年は五月二十ニ日の日曜日に十九回目の式典が行われると話されるのを聞いて、その席で朗唱が出来たらいいのだがと、一晩思ったがすぐ忘れてしまった。
 五月三日、早朝、坂本氏から、石楠花祭で一穂師の「山媛呼」を奉納朗唱してもらえないかの電話であった。
 五月八日、朝八時上野駅で、同行する桜井博と共に、打ち合わせのために上京された坂本氏と会い、この詩碑建立の経緯などを聞くことが出来た。その席で、今年の「上越国立公園草津」の観光ポスターには、石楠花と「吾妻はや/白根の峯にけむり立つ/よひて声あり/古ゆ/これの山媛呼/たきついてゆの/おもひに咲くや/石楠花/一穂」との詩句が共に印刷されているのを見、石楠花祭に一穂の詩作品が息づいていることを知り、またここまで成し遂げられた坂本氏のご苦労を思い感慨にふけった。
 二十一日の夕方、坂本氏に案内されて町を歩いた。前夜祭の行事のひとつとして、白根神社で、町の若者たちによって行われた「牛の丸焼き食べ放題」を見に行った。
 本当に牛が鉄棒にさされ、炭火の上で焼かれていて古(いにしえ)の武将たちがほお張るようにして、切りちぎっては食べながら、これは草津石楠花祭の名物になると思った。
 夕食後、突如、降り始めた雨音を聞きながら山菜保存研究家として、この地に五十年余り生活し、山野を歩くうちに、日本武尊と弟橘媛との故事を知り、この地に「山媛呼」の碑の建立を思い立ち、東奔西走した日々。そして碑の題名を後藤大学、レリーフを彫刻家圓鍔勝三で建立された高さ2・5メートル、幅1・3メートル、厚さ1メートルの碑の前で、鎮花祭の日、一穂師自ら朗読し、献詩した詩篇「吾妻はや」を、十九年後に、私が朗唱することの縁の不思議さを、坂本氏所蔵の数多い一穂の書を見ながら、考えていた。
 二十二日、朝八時半、ホテルまで迎えに来られた坂本氏に案内されて、桜井と共に、会場である殺生(白根火山ゴンドラ山麓前)に向った。
 今年は石楠花の花の散るのが早かったと、坂本氏の指の先を見ると、あかい色をした天然記念物が、僅かに見ることができた。
 会場では、草津町長、草津観光協会会長、山媛呼奉賛会会長等を紹介された。
式典は神主の神事から厳かに始まった。昨夜の雨が全てを洗い流したのか、青空が果てしなく見え、標高1,600メートルのこの地から、残雪も間近に見え、なぜかピレネー山脈を歩いた時のことを思い出していた。
 奉納朗唱(断じて朗読ではない!)するときが来て、私が立ち、肉声をどこをめがけて打とうかと思った。が一瞬のうちに、天地のはざ間に立っているのが見えた。声を出した。
 声を出しながら一穂師との生前に果たしえなかった「約定」を思い出していた。
 ピレネーの頂で撃った銃声はキーンという金属音を発するかどうか、確かめてもらいたい。

 キーンという音が肉声の「間」、山媛呼のコトバの間から聞こえてきた。もう、今日は声を出す必要はない、思い切って虚空めがけて、肉声を打った。
 次いで草津吟詠会の有志による「あずまはや吟詠」が続いて行われた。来賓の挨拶には、草津警察派出所長、営林署長等が立たれ、この石楠花祭が公式の式典であったことを改めて痛感した。
 恐らく、今後、石楠花が咲く五月が毎年訪れるとき、この日の奉納朗唱のことを忘れることはないであろう。
 記念すべき一日であった。


                        (朗唱詩人)
  

 

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