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2006/04/15

ピアニスト ZYGMUNT DYGATの弾くショパン,彼が創り、産み出す音の素晴しさ!

 パデレスキーの三大弟子の一人、ピアニスト、ジグムント・ディガットの弾くショパンを聴いた人は、クラシック音楽フアンが多い日本でも、ほんのひとにぎりの人しか居ないだろう。
私はデガットの弾くショパンの曲を、かってパリの彼の家で聴いた事があるのだ。
 其れは1975年8月5日。まさしく一瞬の僥倖とも言える至福の時間だった。

 ピアニスト、ジグムント・ディガットはルービンシュタインと並んでポーランドのパデレスキーの三大弟子の一人。もし亡命していなかったら、ショパンコンクールの審査委員長に為って当然の実力あるピアニストなのだ。
 何故か日本では全く知られて居ない。

 私がヨーロッパに滞在したのは、最初、1972年8月から1974年4月までと1975年6月から1978年5月迄で、1975年の時はパリを中心にして居た。
その後、十数回渡欧しているが、この二度の約4年に渡るヨーロッパ滞在での体験、経験が、今の私を築き上げてる礎と為っている。

 今、何故、ディガットの事を書くかと言うと、一枚のパンフレット(4ページ)が出てきたからだ。
 私宛の言葉を入れて、赤いインクで書かれており、1975年8月5日、パリ、と記されている。

 
彼にピアノを教わっていたのが私の知人。日本人の女子学生M・Fで、パリに在るラフマニノフ音楽学院(多分?)で、デガット教授に教えて貰っていたので、1度、私はついて行った。
 粗末な木造の校舎の中で夕陽の照るなかで授業は始まった。
デガットの弾くピアノの音は、音楽その物だった。
 その時、私は生まれて初めて,本物のピアニストが弾くピアノの音を聴いたと思った。

 そして次回の授業はデガット教授の自宅で、彼女がレッスンを受ける時、一緒に来ても良いと言う事で私もついて行った。
その家が何処だか今では全く分からない。

彼女がピアノのレッスンを受けているのを黙って聴いていた。

1時間余りのレッスンが終わり、デガット教授が、黙って聞いていた私に向って、貴方の為に弾きたいが、何を聞きたいか?と言われた。私は、ショパンを所望した。

 私はピアノの上に架かっていた、J,HOSHIZAKI とサインされた絵を見て、日本人?とデガットに訊ねると、知り合いの日本人の画家だと彼は言った。

 後年、このサインの画家は、星崎順之助(今、どんな字だったかどうかが判らないが)と言う画家で、日本橋の画廊で本人と話す事が出来た。
 
 
 教授が弾き始めた聞き覚えのあるショパンの曲は、日本人がショパンを学んで弾くのとは、大違い!!!
 デガット教授が弾くだけで、既にショパンなのだ。
 ショパンに為っている。 ピアノの音が違う。学んで弾いている訳ではない。彼自身が既にショパンなのだ!

 私は余りにも気持が良くて、その場で寝てしまったのだ。

 その後、パリでミケランジェリ、ポリーニ、アシュケナージ、ルービンシュタイン、バレンボイム、リヒテル、ギレリス等のコンサートでピアノの音を聴いたが、間近で聴いたデガットのピアノの音にはどれも敵わなかったのだ。

 驚いたね!! これには。
 日本人は何を音楽大学で学んでいるのだろうか!
いや、誰が、何を音楽大学で毎年、生徒に教えているのだろうか?
 もしかしたら、ショパンを教える事は出来るかもしれない。
しかし、学んだ者は学んだ事を弾く事は出来るかも知れないが、ショパンではないのでは?

デガットのピアノの音を聞いてからは、幾ら有名なピアニストの音を聴いても納得いく事が出来ない自分が居た。

余りにも、下手糞すぎて!!!

 音が出来ていない!

 聲も人為り。字も人為り。音も人為りなのだが、解っていないピアニストが余りにも多すぎる。

何とか、今、生きているピアニストに聴ける音を弾き出して欲しいと望むだけだ。

 有名でも実力が無いピアニストが多すぎる。

何処かに、今、聴くべき音を産み出すピアニストが居ますか?

 居たら有名無名に関らずお教えいただきたい。

 あの至福の時を、再び味わいたいものだ。


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2006/04/13

詩人 黄 瀛(こう えい)さん直筆のサイン。

 遂に黄瀛さんに書いていただいた肉筆を見つけました。

 昨年(2005年)8月3日付けのブログ「詩人 黄瀛さんの会について」を書きました。
そして間違いなく黄瀛さん自身にお会いした証しとして、万年筆でサインして頂いた本を捜して来ましたが、ひょんな所に隠れていた本を遂に見付けました。

 『現代詩集 歴程篇  歴程同人編』(角川文庫ー343-)昭和27年5月30日初版発行。
この文庫の内に、黄瀛は「雪の日」、「會見」、「或る日のH氏」の三編が収録されている。

この文庫本を買ったのは、かつて池袋西口に在った 古書高野 こと高野書店。
既に今は無い。この高野書店の主人は今の高野之夫豊島区長。(懐かしいね!)

 すでに判読不明の署名が有り、その横に、

            五十年ぶり母校で
            若い、併しいみしい鬚の詩
            人天童さんと相逢う
            楽哉!快哉、 
                 黄瀛84,6,23

 と万年筆で書いてくださった先輩、詩人 黄瀛さん。

 さようなら、先輩 詩人 黄瀛さん!!!


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2006/04/11

瀧口 修造が書いた「ブルトンの書斎」

 「みづゑ No646」(1959年3月3日発行)に初出が掲載されて居るのは知っていたが、実物に触れて見る事は中々出来なかった文章「ブルトンの書斎」。

其れが昨日(4月10日)神田・神保町の通い慣れた古書店の奥に、積まれていた「みづゑ」の中でを見つけた。
 50冊余りだろうか、1冊、300円。
或る画家が処分した物だとか。

積んである雑誌を捲りながら、或る1冊を開くとあのブルトンと共に写っている瀧口修造の写真が目に飛び込んできた。
 右上にはPhoto:Rene Rolandと印刻されている写真。
このブルトンの書斎を"人間博物館"と名付けた瀧口修造。
 先頃、亡くなった若き日の東野芳明も写って居る。

 何故かかって、シュールレアリズムは文学運動ではない。 れっきとした政治運動なのだ、と直識した時の事を思い出した。

 1968年のパリ五月革命は、世界に影響を与えたが、前年末に数人の手で作成された薄い小冊子から始まった事はほとんど知られていない。
 この小冊子の存在を察知したフランス秘密警察が手入れを行った時、 事前に捜査を知ったメンバーは、取るものもとりあえず逃げた。

 アントナン・アルトーの自作詩の生原稿を、多数、置き去りにして、その他、今となっては貴重な資料を投げ捨てて逃げた。

  その逃げた男の独りと1976年、パリで出会った。  その時、色々な事を聞いた。

 その男は1980年代に日本を訪れた。その時、沢山聞いた、逸話の1つを、出会った瀧口修造に話した。

 1978年1月15日、自由ヵ丘画廊で開催されていた「窓越しに・・・マルセル・デュシャン小展示」の会場で、私は瀧口修造に、或るアントナン・アルトーのエピソードを伝えた。

すごく私の話に興味を持った彼は、面白いですね。発表したら是非、送ってくださいよ、何時、書かれるのですか、言った。
 今、残っているのは、その時にサインして貰った、案内状と会場に居合わせた人々と瀧口修造を中心にした1枚の写真だけだ。
 1979年7月1日、瀧口修造は亡くなった。

その後の1980年、詩誌「幻視者」(第19号)に、詩作品「太陽の啓示 -瀧口修造にー」を書き、発表。
密かに、追悼した。その詩作品の中で、「直識」 (これは天童大人の造語で、2002年12月27日、登録され商標原簿に登録された。)が初めて用いられた記念すべき作品で、詩集『エズラ・パウンドの碧い指環』(北十字舎刊)に収録されている。

 日本の陰湿な風土の中で、瀧口修造が健康で有ったら、真のシュールリアリストに為りえたであろうか?


  

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