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2009/05/05

詩人・作家の稲葉真弓さんが『私ハ死ヌガ、我々ハ生キル。 追悼ー十川忍』に文章を書いていて、その中の一節、詩人田村隆一さんの言葉に目が止まった。

 昨日の夜から、工房兼仕事場を片付け始めたら、思いがけない、忘れて居た本が沢山出て来たのだ。

その中の一冊の中に書かれている稲葉さんの文章に目が止まった。

実は二重に重なった本棚の奥に、田村隆一著『詩人のノート』(朝日新聞社刊、1976年5月25日 第1刷)が在って、開くと見開きに、1986年7月2日 鎌倉にて 隆一 と署名が有るのだった。

これは北海道から出て来た詩人・版画家の大島龍と田村宅を訪問した時の証しだった。

ところで稲葉真弓は、<話は飛ぶが、いつか詩人の田村隆一氏を訪ねたとき、ちょうど桜の季節だったこともあって桜の話になった。田村さんはこう言った。[上野の、浅草だの、あるいは吉野だの桜の名所はたくさんあるけそ、あれは全部にせものだよ。本当の桜はね、山の中でひっそりと一本だけ風に揺られている山桜のことなんだ。ソメイヨシノなんてね、あれはひどい桜の中の代表。いまじゃソメイヨシノだけが桜のようになったけど、それは山の中に咲く一本の山桜のきれいさ、素朴さ、寂しさに比べたら女中のようなもだよ。]
田村さんは例のごとく酔っぱらっていらしたけど、この言葉は強烈だった。私はそのとき文学というものはきっと、本当はきらびやかなものではなく、山に咲く孤独な花ではないかという気がしたのだった。>と記されている。

その次のページには、闘病の記録、が有り、1992年6月30日の項に、三十日ー天童大人さんが長崎県・対馬で、十川さんのために朗唱をささげて下さいました。 と記録されている。
[聲ノ奉納 in 対馬・和多都美神社]三年目の出来事だ。

その[聲ノ奉納]も今年は20周年記念。 東京から1名増えて、8名。熊本から1名、久留米から1名の計10名。
本当はもっと参加希望者が居るのだが、ミニバスの定員10名で決まりだ。

不思議な組み合わせ。!!!

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